[#表紙(img/表紙.jpg)] 南 伸坊 笑う茶碗 目 次  青梅の由来  なまけものの節句働き  草笛光夫さんのこと  自家製グリンピース  アフリカの大統領  月食と蓮の香  シキシマゼキ  救急車は大ゲサか?  ほんとのところ  わらしべ長者  長瀞のロウ石  風流だけど……  竹取りの翁  じっと手を見る  トンパ文字  ホタルがいっぱい  虚心坦懐、熟慮する。  カラス、頭いいか? 問題  初めての断髪式  流星観測  ヒミツのお誕生会  日比谷公園のカエル  うぐいす鳴いた  ヘンな団体名  ナゾの物体X  ドロボー夫婦  腹筋騒動  お静かに願いたい  子バカ状態  サイナンに強いタイプ  楽しい人間ドック  おかめひょっとこ  オヤワナマガシ  ご近所の目  ナメ太の家出  オキモノノオジョウサマ  いまどき、ケータイ  鈴虫のおかげ  近頃のジジイ  和太鼓ルーム  精肉店のクリスマスツリー  大晦日、狐の行列を見る  節分のナマオニ  まだまだ若いツモリ  狸の階段  あとがき [#改ページ] [#1字下げ] 青梅の由来 「青梅というのはですね」 とアダチさんは言った。アダチさんは、都下青梅市の出身である。言って、ちょっと心配そうにこちらの顔を見た。 「この話、前にもしましたっけ?」  アダチさんは私と同年輩である。この心配はよくわかる。私も同じ話をはじめてしまうことがよくあるのだ。そうして、横からツマにチェックされる。 「その話、前にもしたんじゃない」  同じ話をするのは、話したことを忘れるからである。忘れているから何度でも新鮮なキモチで話ができる。 「ええ、聞いたような気もするけど、どうせ忘れてるから大丈夫ですよ」 と私は言った。 「そう! 忘れるんですよみんな。どうしてですかね、今まで何度も話しているのに、誰一人覚えてくれないんですから」 と、アダチさんは、前に話したことを忘れているくせに不足を言った。 「今度は覚えてるから、もう一度だけ言ってくだせえまし」 と私はうながした。 「青梅というのはですね」  昔、タイラノマサカドが、どっかからどっかへ、誰かに追われて逃げてる時に、青梅のあたりを馬で駆けていたんですよ。 「その頃はまだ、青梅と言わなかったんですよね」と私は言った。 「そうです、よく知ってるじゃないですか」。それでね、その時マサカドは、梅の枝を折って、馬にムチをくれていたんです。 「そうそう、思い出しましたよ」。その梅の枝をマサカドが…… 「捨てたんです」。そうでした。するとその捨てた梅の枝が、ストンと地面に刺さったんですね。で、そこで根がついて、梅の木が育ったのだが、その梅がマサカドの怨みによって、いつまでも熟さずに、青いままであったために、この地が青梅と名づけられたのだった、そういう話なのだった。  いまでもその梅は、なんとかいう寺の境内に生えているのだが、 「ちゃんと色づいてしまうんですよ、これが……」 と、アダチさんは残念そうなのだった。 「それはウソでも、青いままということにしておいた方が、よかありませんか?」 と私は提案した。 「しかし、事実は曲げられませんから……」  アダチさんは、新聞の編集委員なのである。社会部の記者からはじめて、雑誌の編集長やら、家庭面のデスクやら、歴任して、いまは編集委員として、署名記事を書いたりしている。 『対岸の家事』というコラムを私に書かせたのは、このアダチさんだ。「対岸の家事」のダジャレを思いついたので、タイトルも決めてくれたのだ。  マサカドの梅は、もう青いままじゃなくなった。しかし、地名は青梅ということになったので、ずっと青いままである。  今年は黄色いから黄梅市、おととしは赤かったから、赤梅市というわけにいかない。青くなくても青梅市。 「しかし、どうしてですかね?」と、アダチさんは先刻の不足を、むしかえした。 「会う人ごとに、話をしているのに、ハシからみんなが忘れるので、ちっとも青梅の由来が、世の中にひろがりませんよ」  だって、そんな、観光バスのバスガイドさんが、へんな抑揚つけて話すような話、覚えないのがフツーじゃないの? と私は思った。  マサカドの首が京都の方から飛んできて、飛びこえたところが浅草の鳥越神社だとかさ、途中で力尽きて落ちたところが津久戸明神だとかさ、そっちは派手だよ。 「なにしろ首だからね」  首が飛びこえたからトリゴエで、首が力が尽きたのでツクドですよ、シャレもムリヤリでバカバカしいじゃん。梅の枝がささって、そこから梅が育って青いままだから青梅って、ふつうですよ。  忘れてもしかたない話じゃないの? と私は思ったのだった。思ったがそうは言わなかった。  そんなこと言ったら、アダチさんはもっとガックリきてしまうだろう。  会う人会う人に青梅の由来を聞かしているのに、誰一人覚えてくれないのである。 「ああなるほどね、梅が青い、青いままだから青梅ですか、はあ、はあ」 と、一応、相槌を打って、一〇秒後にはもう忘れてしまうのだ。 「アダチさん、ボクは覚えましたよ青梅の由来。これからボクは会う人会う人に、この話をしますよ。トートツに突然、青梅の由来を説いてまわりますよ」  冗談のつもりだったが、アダチさんはうれしそうなのだった。 「青梅はいいとこですよね、ボクは梅の花のニオイをかぐのが好きだからね、いきましたよ二年くらい前に、青梅。ウメサトっていいましたっけ」 「バイゴウですね」とアダチさんは訂正した。 「そう梅郷。よかったなァ、何もなかったけどね、でもって夕方んなると真っ暗で寒かったー」 「寒かったねー、駅にダレもいなくなっちゃったしねー」とツマが唱和した。 「ああ、何もない。うーん、何もないですねえ」とアダチさんは言った。ザンネンそうだった。アダチさんはほんとに青梅が好きだなあ。 [#挿絵(img/005.png、横156×縦228、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] なまけものの節句働き  仕事が進まないと、ついTVを見てしまうのである。仕事机から直接見えるところにTVがあるのがイケないとわかったから、机からはTVの画面が見えない配置にしてみた。  こうすると、TVの画面が見えないので、正しくTVの画面の見えるソファのところへ行って、本格的にTVを見てしまうのである。  これを要するならば、自分は仕事をするのに向いていない性格なのだという結論になってしまうが、そんな結論を出してみてもはじまらない。  今日は日曜日で、しかも三連休の最終日である。連休中もずっと仕事場におり、しかも電車がなくなるころまでグズグズしているから結局タクシーで帰ることになる。 「お客さん、今までお仕事ですか!!」 とタクシードライバーが大仰に驚くので、 「おたがいさまだろ」と思うけど、そうは言わない。 「運転手さんと違って、なまけものなんでねえ、なまけものの節句働きっていうでしょう」  はははー、いや、仕事があるだけイイ事じゃないですか、なんてナグさめてくれる。  まさか、仕事場で一日TV見てたとは言えない。もっともTVを見ていて、タメになることがまったくなかったわけじゃない。今日はNHKスペシャルの「カンジとパンバニーシャ」というのを見て、タメになった。  カンジとパンバニーシャは、ジョージア州立大学で飼育されているボノボと呼ばれる類人猿である。  この二人というか、二名様は人間のコトバ(しかも英語)をスラスラと理解するのだ。アメリカ人のコドモが、英語をスラスラ理解するのにも驚くが、この二名様はサルである。  電話でペラペラと私にはわからないコトバでアメリカ人が話すのを聞いて、内容を理解するのだ。理解して返事もする。返事はキーボードのパネルにある絵文字のキーを押すと機械がリッパな発音でしゃべるようになっている。  ボノボが、人間と同じようにしゃべらないのは声帯や口の中の構造が、人間語をしゃべるようにできていないからだけらしい。 「どうする?」 とツマが訊くので私は答えた。 「しかし、ヤツに日本語はワカラナイだろ」 「英語で育てられたからね」  日本語の環境にいれば、日本語もわかってしまうらしい。 「こまったことになった」 と私は言った。先日も、やっぱりTVを見ていたら、その時はチンパンジーだったが、TVの画面に映った六つの数字とその位置を瞬時に記憶するサルが出てきたのである。  たとえば、6・9・2・4・7・3のようにランダムな数字が、パッと画面に出てくる。それを何気ないふうに見ていたサルが、いきなり「2」のところを指でおさえるのだ。 「2」がこの六つの数字のうち、いちばん若い数字だからだ。すると、おどろいたことにその時ほかの五つの数字はそれぞれが四角い色面によっておおわれてしまう。 「おいおい」と私は思ったのだが、サルは動じる気配もなく、そのタダの色面である五つの色のうちのひとつを、指でタッチする。と、「3」という数字が出てくるではないか。  そのようにして以下、4、6、7、9と、若い順に正しく数字を開いていくのだ。 「こまったことになった」と、その時も私は思ったのである。冗談じゃないぞ、そんなにヤスヤスと、むずかしいことをサルにされてはコマル。  私はいまに、サルが計算をはじめるのではないか? と心配である。キーボードがあやつれるのであるから、電卓で計算するなどはワケないはずだ。そうではなく、暗算が出来るようになるのに違いないのだ。  しかも、涼しい顔で、ちょっとメンドクサそうに、やすやすと暗算する様が目に浮かんでしまった。 「シンちゃん一〇〇から九引くといくつ?」 とツマが突然「問題」を出したことがあった。 「なんだいヤブカラボーに、オレは算数がニガテなんだ、え? 一〇〇から九引くだって……そのくらいはワカル……九一だろう、いくらなんでもそのくらいわかる」 「うん、それからまた九引くと……」 「え? まだ引くのか……エート……八二……か、それがどうした?」 「そこから、もう一度九引くと?」 「いっぺんに引いたらどうなんだ。チマチマ、チマチマしてないで、え? だから、八二から九引くわけだろ、うーん、まかす、そっちで勝手に引いてくれ」 「ガーン」 と、ツマが擬音を発している。 「どうした?」 「どうしたじゃないよ、これ痴呆症のテスト問題だよ、TVでやってた」 「うん、TVも時には役に立つ」 「シンちゃんさァ、もし、犯罪犯しても、無罪になるかもね」 「いや、オレは犯罪は犯さないぞ、犯罪は悪いことだからな、近頃は、そういうカンタンなこともわからないバカがふえていて、コマッタものだ」と私は言った。正論であろう。 [#挿絵(img/006.png、横136×縦220、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 草笛光夫さんのこと  草笛光夫は本名ではない。草笛光夫さんの本名が何というのか、それは知らない。  それが本名でないと、なぜ分かるのかといえば、草笛光夫は、私とツマが勝手にその人に命名した名前であるからなのだ。  草笛さんにはじめて会ったのは、一年前の春だった。我々は近所を散歩していて、隣の町内の小さな公園で腰を下ろして一服していたのだった。  我々は散歩が好きで、同じくらい散歩の途中に一服するのが好きだ。何かというと一服する。  火をつけて、大きく吸いこんで、さて吐き出そうとする時に、ツマが小さく肘で私をつついた。  ライターを催促されたのかと思って、それを渡すと、 「そうじゃなくて……」という目顔で前方をさししめすようにする。  さしておそい時間ではなかったけれども、先刻から公園には我々のほかには誰もいなかったのだが、今、前方の植込へ身をのりだすようにしている初老の人がいた。  我々に背を向けるような格好で、その人は、枝から葉をちぎっているようだった。  痩せぎすの小柄な体を際立たせるように、長袖のポロシャツをズボンにたくしこんで、きっちりベルトを締めている。足許は、散歩をするにはちょっとフォーマルな黒の革靴である。  そうしてその姿勢、我々に背を向けたなりの姿勢で演奏を始めたのだった。  先刻の動作が、楽器を調達するところだったというのが、それで知れた。おじさんは草笛を吹きだしたからである。  ♪静かーな、静かな、里の秋…… と草笛で歌った。お瀬戸に木の実の落ちるところもやった。  この曲は戦争中「星月夜《ほしづくよ》」という題でつくられていた曲である。一九四五(昭和二〇)年終戦となり復員が始まった、NHKではこれらの人々のための情報番組「復員だより」を放送したが、これに先立つ特集番組の中で、復員兵を歓迎する歌を要請、急遽、作詞者斎藤信夫の手によって「星月夜」の三番が改作され、曲名も「里の秋」として放送した。  と、自由現代社の『なつかしい歌・童謡唱歌のほん』に書いてある。書いてあるのを知ったのは今である。歌詞があやふやだったので、いま見たのである。  だからその時は、なんだかさみしい曲だな、と思ったきりだった。  次におじさんは「旅愁」をやった。  ♪更けゆく秋の夜、旅の空の……というアレだ。  たいがいツーコーラスずつ演奏する。 「秋だね……」と私は言った。 「春なのに……」とツマが言った。  おじさんのテーマは秋なのかな、と小声でそう言っていると、今度は、  ♪うさぎ追いし、かーのーやまー……になった。出たなァ、きわめつけだなあ。おじさんのテーマは「さみしい」やつかもしれない。  三曲きっちりツーコーラスずつやるとおじさんはスタスタ帰ってしまった。我々はおじさんがどういう人なのか、それぞれ思うことを述べあった。 「おじさんはネ、東京の人じゃないと思うな、若い頃、っていうか少年時代、彼女の前で草笛吹いたことがあってねえ、イイ感じになったことがあったと思う」 と私が言った。 「いや、草笛光夫はね……」 とツマが、いきなりここでおじさんに名前をつけてしまったのである。 「日本草笛友の会の会員だと思うね、それで草笛を吹くようになったのは、意外にも、定年退職後で、そう昔ではない。今はかなり上達したので指導員の資格も持っているのだ」 「草笛友の会では、カルチャーセンターで教室も開いているね」 「あんまり人は集まんないんだけどね、それと男が多い。っていうか男ばっかり」 「女性会員もほしい。決してそういった意味合いじゃなくですね老若男女、誰でも手軽に楽しくできることでもあり、とかく明るい話題に乏しい現代の都市生活にうるおいを与えるといったメリットもある」 「だけどどうしても曲調が、悲しい方向にいっちゃうのね、草笛っつうものは……」 「うん、ふるわせるからねえ」 「どうしても、ふるわせるね」 「この近所に住んでんのかなあ」 「服装的には出張して来てる感もあるんだけど、でも、比較的近所にお住まいだと私は見たね」 「拍手したらよかったかなァ、三曲たっぷり聴かしてもらったし」 「でも拍手しづらいタイミングだった」 「ずっと後ろ向いてたしなァ」  散歩すると、こんなことに出会ったりするものなのだ。  ところが先日である。自宅のベランダで一服していたツマが、 「しんちゃん、しんちゃん!!」と私を呼んだ。  呼んで家の前の公園のベンチにいるオジサンを指さして言ったのである。 「あれ、光夫じゃないかな?」  以前に草笛さんに出会った公園とは違う、家の前の公園だ。  その時、草笛が何かメロディーを奏でた。「ほらね」  うん、そうだと思えばそうだが、今度のメロディーは何の曲なのか、ちょっとわからなかった。 [#挿絵(img/007.png、横140×縦207、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 自家製グリンピース  タケノコの皮をむいたり、トウモロコシをハダカにしたり、ソラマメをサヤから外したりする「おてつだい」がキライじゃない。やってると、小学生の頃にもどったような気がする。新聞紙をひろげて、モクモクと作業するのである。 「ハイ、アリガトネ」とか言われると、ひどく素直なコになった気分である。  サヤインゲンやキヌサヤの、スジをとるのも、トクイだ。 「もっとないのか?」とサイソクまでする。  先日やったのは、グリンピースをサヤからとり出す「おてつだい」だった。ぜんぶとり出したら、その中のいくつか、一〇粒だったか一二粒だったかに、かわいい根っこが生えてきていた。 「コレ、もうちょっと伸ばしてあげたいね」とツマが提案して、カット綿を水にひたしたのの上に置いて窓辺に出しておいた。  二、三日して見ると、芽も出て、根はカット綿の繊維をしっかりとらえだしている。 「面白いから、植木鉢で育ててみよう」と、またツマの提案で植木鉢に移植した。  植木に水をやるのが好きだから、毎朝、ジョウロで水をやるのである。すると、この豆が、スクスク伸びるのですこぶるカワイイ。  するうちに、つるが伸びて、ハリガネの枠にからみつき、いつのまにかスイートピーみたいな花をつけた。  しかも、その花から、こんどは、小さい小さい、サヤが出てきたのだ。よく見ると、プチプチ、小さな豆を抱えている。 「おい! 豆が出来たぞ! 豆だ豆だ!」と私は騒いだ。  ツマは田舎育ちだから、そんなことでは騒がないが、しかしそれでもうれしそうだ。  小さいサヤの小さい豆は、かわいくて笑ってしまう。 「カワイイなァ」 「うん、カワイイ」 と、豆は我が家のペットになったようだ。だが、我が家はロマンチックな家風ではないので私はこう言った。 「これ、もうちっと大きくなったら、サヤごとゆでて食べよう」 「それはいい、それはいい」 というので、しばらくして一四コばかりゆでて食べた。うまかった。  これでおしまいだろうと思っていると次々に花が咲くのだ。  咲いて次々にサヤが出てくる。 「今度はもう少し豆らしくなるまで待って豆ごはんにしよう」 という提案があり、私も賛成した。  おどろいたことに、サヤはずんずん大きくなって豆がどんどんふくらんでくるのだ。 「すごいな、一人前の豆じゃないか、もうこんなに大きくなってるぞ」  はやく収穫しないと、はじけてしまうんではないか? と私はハヤったが、ツマはまだまだ、と落ちついている。  毎朝、水まきをして、成長を目のあたりにしている私は、気が気でない。 「豆ははじけぬ前にとれ」とユダヤの格言になかったか? と言ったりするのだ。 「そういう格言は聞いたことがない」 とツマは言っている。 「よし! 今日だな」 とツマが言った。今日、穫り入れの儀を行なう、と宣言した。  宣言して、カゴと植木鋏を持ってしずしずベランダにやってきた。私に植木鋏を手渡すと、おごそかにこう言うのである。 「ヘーカ、おトリイレのギを……」  あそう、オレがヘーカなのね。よろしい。と私はしめやかに鋏入れのギをやった。 「パチン」 「うん」 「パチン」 「うん、てゆーかヘーカ、もっとヘタのとこも残して切ったほうが、そじゃない! そこ」 とヘーカにタメ口である。てゆーか命令口調。 「じゃあね、次はマメダシのギ」 ということになった。こないだゆでてサラダにした時より、サヤは固くしっかりしている。豆は丸々として、リッパにグリンピースである。全部出して皿にならべてみると、一〇〇個ばかりになった。  ずいぶんあるように思ったけれども、豆ごはんにすると、 「かなりパラパラかもしれない」ということだった。 「じゃあ、今日の晩ごはんに」と言うので、帰宅すると、 「ジャーン」と伴奏入りで、グリンピースの豆ごはんが出てきたのだった。  これがもう、うまいのうまいの! すごくうまいのだった。 「うまいなァ、マメごはん!」 「うまいんですよ」 「うまいなァ、マメごはん!」 「でしょ? うまいんですよ」 と、ツマもトクイそうなのだった。  なにしろ、自分たちで育てたグリンピースな上に、とり入れてすぐだから新鮮だ。買ってきた時につくったマメごはんより、数倍うまい。産地直送グリンピース。 「マメごはんは自家製に限るね」 「限るね」と、我が家は衆議一決したのだった。マメごはんは自家製に限る。 [#挿絵(img/008.png、横136×縦211、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] アフリカの大統領  私とツマは、アフリカの大統領の名前を二人分知っている。その名前はとても日本人には発音しにくいものだったので、いえるようになるまで二人で発音練習をして覚えたのであった。  二人の大統領の名前は、ハビャリマナ・ルワンダ大統領と、ヌタリャミラ・ブルンジ大統領である。二人の搭乗していた飛行機が、キガリ空港で墜落し、いちどきに二人の大統領が亡くなったというニュースを、われわれはTVで知ったのである。  いま調べてみると一九九四年四月のことだった。 「え? なんだって?」 と私はいった。復唱しようとしてできなかったからである。  ツマがニュースを見ながら二人の大統領の名前をメモし、我々はそれから練習した。  練習して、せっかく「ヌタリャミラ、ハビャリマナ」といえるようになったが、以後この名前が、TVやニュースに登場することはなかった。折角スラスラつかえずにいえるのに。  ブルンジ紛争は、ツチ族とフツ族の民族紛争で、フツ族一〇万(一説には二〇万)の死者を出すという、非常に悲惨な事態なのであったが、私達は、それを機に、アフリカの政情といったものに興味を持ったわけではなく、単に発音しにくい人名を二つ覚えただけである。  したがって、ヌタリャミラ大統領の後任にヌティバンツンガニャという、さらに発音のむずかしい大統領の出たことも、後にクーデターの起こったことも、いま調べて知ったにすぎない。  しかし、九四年の事故以来、わが家では、何度も二人の名前は呼ばれたのであり、その度に我々はスラスラと「ヌタリャミラ、ハビャリマナ」と発音できたのだった。  スティーブ・マーチンが扮した、世界一読みにくい綴りの名前を持つ脳外科医の名前は、ハフハールというのだったが、アメリカ人にはこの人名の発音がむずかしいらしい。  やたらにこの名前を発音するのがギャグになっていたので、これも覚えてしまった。日本人にとっては、ハフハールはそれほど発音しにくいというものではなく、しかも、映画の中の登場人物の名前とあっては、覚えていても何のトクにもなりそうもない。  高校生の頃、姉のボーイフレンドが演劇をやっていて、スタニスラフスキーという人物の話をするので、その名を覚えたのはまだしも一種の「知識」のようではあったけれども、かといって、スタニスラフスキーがどんな顔をして、どんなことを主張していたのか、知っていたわけでもないのだから、これもムダな記憶であることにかわりない。  私が「スタニスラフスキー、スタニスラフスキー」と唱えているのを面白がって、もっと長い名前がある、といって、その姉のボーイフレンドが教えてくれた「インノケンティー・スモークトノフスキー」にいたっては、ナニ人のナニをする人なのかも知らないのである。  まったく困ったもので、だから無教養な者はしかたないといわれてもしかたないと思っている。  イランの映画監督、アッバス・キアロスタミは、名作『友だちのうちはどこ?』や『そして人生はつづく』、『オリーブの林をぬけて』、『クローズ・アップ』などの映画を監督した人で、私はこの人の映画をとても好きだけれども、その話をしようとして、しばらく「アッバス・キアロスタミ」と言えなくてコマッたことがある。  この時も、すこし練習をしていえるようになり、今なら何度でも間違いなくいえるのである。  これなどは、意味のある記憶といえるかもしれない。  しかし、人間の記憶力といったようなものはフシギなものである。外国人の名前などは、まったく無意味な音のつながりでしかないのに、覚えようとして、何度か練習して覚えてしまえば、何年経っても覚えているのである。  私たちの覚えたアフリカの大統領は、覚えた時には、既にその名を口にして意味のあるシチュエーションがなくなっていた。  しかし、わかってみれば、歴史の悲劇の中の人物なのであって、おもしろがって、ただその名を呼んだりするのは、不謹慎であるような人名なのだった。  試みに、何度か友人と話している時に話題にのぼせたりしてみたが、その名を知っていた人はいなかった。  そして、二人でその名を、早口言葉のようにいいつのる、我々夫婦は冷たい目で見られたのだった。  いっそのこと、二人が大統領なんかではなく、大食い選手権の優勝者と準優勝者だったりすればよかったのになァ、と我々は思っている。  そうであったならば、我々夫婦が、 「ただいま」 「おかえり」 というかわりに 「ヌタリャミラー!」 「ハビャリマナ」 といってると書いても、ヒンシュクを買うことはないだろう。  もちろん、そんなことを我々は、断じてしていない。 [#挿絵(img/009.png、横128×縦234、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 月食と蓮の香  蓮の花が、ひらくときには、 「ポン! と音がする」 という話を聞いたことがある。  話には聞いているけれども、その音を聞いたことはない。  周囲にカクニンすると、 「なるほど話には聞いたことがあるが、その音を聞いたことはない」 というのが、世間一般の通り相場なのだった。  なぜかというのに、蓮の花のひらくのは日の出と同時だからである。たいがいの人は、その頃寝ているし、起きてる人はいそがしくて蓮の花の開く音なんかに興味ないだろう。 「そうか、それで誰も蓮の花のひらく音を聞いたことがないんだ」 と、われわれは思ったので(われわれは、私とツマである)「蓮の花がポン! といってひらくかどうか調査団」を結成して、事実究明に乗り出した。四、五年前のことだ。  夜明けに現場にいなければいけないから、前日から乗り込むことになった。現場はどういうわけか茨城県の古河なので、前夜の終電に乗って古河駅近辺のビジネスホテルに泊まる。  早朝、まだ暗いうちに、タクシーを呼んで、現場の蓮池についた頃、空が白みかけてしまったのだった。 「しまったァ!!」 と、調査団は悔んだが、現場はしんと静まり返っていて、すでに、蓮は開花を終えてしまったようだった。 「第二次・蓮の花がポン! といってひらくかどうか調査団」は、前年度の失敗にかんがみて、翌年は前夜のうちに現場に出かけ、そこで「野宿」することにした。  当夜は台風が接近しており、風の音がものすごく、これで暴風雨などになったりすれば、ナゾの変死体になってしまわないとも限らない、不安な一夜であった。  さいわい、台風はコースをそれ、みごと現場で日の出を迎えたのである。たのであるが、蓮はウンともスンともポンともいわなかった。  蓮はひらくとき、ウンともスンともポンともいわない。ということがこの調査によって明らかとなったのである。  と、以上のようなことを、友人のスエイ夫妻に話したところ、  今年も蓮を見に行くのか? 行くのなら自分たちも一緒に行きたいがどうか、という申し入れがあった。 「いいけど、野宿だよー」とツマがいった。 「おもしろーい! 野宿やろう!」 とヨシコちゃんがいった。うちはワインとねえ、ツマミとか用意する。じゃあうちは、お弁当つくってくから、など担当者同士の打ち合わせもできて、決行ということになった。  決行日は七月一六日、当夜は二〇世紀最後の皆既月食の日でもあり、なかなか風流な企画といってよかった。風流ついでに、夜間の照明は提灯でということになって、以前、漫画家の高野文子さんにいただいた、ピンクと青緑で絵のつけられた、子ども提灯と、お盆の「こんばん提灯」を持参した。  古河総合公園は、夜間の入園を拒んでいないので、野宿には最適だ。が、夜間に入園しようとする人は、ほとんどいないらしく、園内は真の闇といっていいほど真っ暗なのだった。  提灯の明かりというのは、足元と自分の回りは明るくなっても前方にはきかない。まるっきり真っ暗なままだ。懐中電灯になれた身には、まるで前方がなくなったような感じ。なかなか風流である。  くもの巣を払ったりしながら、闇をつき進んで、目的のあずまやに辿りつくころ、皆既月食から、少し、月がぬけ出るところだった。  ワインやつまみ、用意のおにぎりなど食べながら、しばらく月見。月食は幻想的、酒もつまみも最高。照明にやや困ったのは、提灯が自立しないタイプのものばかりだったことだ。  日の出直前まで、仮眠をとることになって、二時間ばかり寝る。野宿はおもしろい。が、蚊がうるさいのである。蚊はほんとにうるさい。  ぜんたい蚊というものは、なんでもかんでも、刺してやろう、かゆくしてやれというものでもあるまいに、あの、ぷうう〜〜んという音をむやみに立てるのはいかがなものだろう。  虫ガードを塗って、蚊取線香をいぶしていても、あの、ぷうう〜〜んという音をされてしまったら、もう寝てはいられない。  そうそうに仮眠はやめて、暗いうちから現場に向かう。  夜明け前、蓮の花は、ほのかなグレーで、ボーッと発光しているように見える。あたり一面、スパイシーな香りが立ちこめて、朝もやがふんわりとひろがっている。 「すごーい! すごーい!」 とヨシコちゃんがよろこんでくれた。四人で、蓮の花の香りを、はしからかいでいく。大きな花に、顔をすっぽりつっこむようにして、瞑目してその香をかぐのである。  蓮の花のトンネルをぬけて、どこか極楽か地獄か、「そういう所」につれていかれるような気がする。 「すごくよかったア、幻想的で、やっぱり蓮見は野宿にかぎるねー」 と、スエイ夫婦は感想をのべた。  野宿はおもしろいし、蓮も月も素晴しいし、ワインもうまかったが、「眠い!」と四人は激しく合意したのだった。 [#挿絵(img/010.png、横153×縦216、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] シキシマゼキ  大相撲に行ったら、ワレワレは周りがふりむくくらいに大きな声でカケ声をかけるのである。  ワレワレは、私とツマと、私の子も同然のえのきどいちろう夫妻である。えのきどいちろうさんとりえさんは、すべてひらがなだが、ワレワレ夫婦が「仲人」をした夫婦だから「子も同然」である。  アレ? 「子も同然」は、店子のことか? 私はえのきどさんの仲人だけど大家ではない。まアしかしずっと年下だし子も同然だ。私は二人が子供のようにカワイイ。  で、ワレワレとワレワレの子も同然のえのきど夫妻は一斉に力士にカケ声をかける。  カケ声をかけているのは、ワレワレだけではないのに、何故、周りがふりむくかといえば、カケ声をかける力士が「敷島」関だからなのだった。  こんなことをいったら失礼な話だが、ワレワレは敷島関と、友達同然のつきあいをさせてもらってるので、すっかり「ダチ」感覚だから、失礼もかえりみないのである。  敷島関は、格別の人気力士というのではないので、四人一斉に、 「シキシマーッ!」 「シー、キー、シー、マーア!!」 「シキシマ!!」 「シキシマーーーーーーーー!!」 と、突如として人気が出てしまうと、周囲はビックリするのである。  ビックリするが、おおかた親戚か友達であろう、と思うから、そういつまでもオドロいてはいない。  ワレワレが敷島関を好きなのは、相撲が強いからだけではない。強いのだけが好きなら、貴乃花とか曙とか武蔵丸とか、いろいろいる。  もっとも最近は、断然強いというほどでもないが。  最初に敷島関に注目したのは、えのきどいちろうさんだった。ものすごく目立っていたからなのだ。えのきどさんはその時、ワハハ本舗の芝居を見ていた。  ワハハ本舗の芝居を見にきて、ワハハと笑っている相撲取り、は目立つので、えのきどさんは注目してしまったのだった。  その後も、あんまり「相撲取り」がいそうにない、コンサートだの、ライブだので、えのきどさんは敷島関に注目してしまうことになり、えのきどさんの友人達の間で、 「アイツはどうも話せる相撲取りらしい」ということになったらしい。  つまり、冗談好きで、トンガッた感覚のある、センスのいい相撲取り。  そのうち、話しかけたか話しかけられたか、友達になったらしい。  それで「おもしろいから」と、私も紹介していただいたのであった。 「あした、多摩川の河原に来て下さい。おもしろいスから」 というので多摩川の河原に行ったのである。すると多摩川の河原に相撲取りがいて、チャンコを作っていた。それが敷島関だった。  敷島関はチャンコがメチャメチャうまいのだった。お相撲さんとつきあえるのは、たいがいお金持のダンナだと思っていたが、ワレワレは、敷島関が食材を買い出しして、ワインやビールやいろいろ用意してくださったのを、ただ一方的にゴッツァンになるダンナである。  ゴッツァンになるだけでなく、ウチのツマなどは、初対面にもかかわらず、 「お願いがあるんですけど」 と、お願いまでしたのだった。誤解があるといけないので、書いておくが、ふだんウチのツマは決して図々しくない方だ。むしろ控え目なタイプである。  しかしそのツマにして、初対面でお願いまでさせるほどに敷島関は寛容な包容力のある大人物なのだった。  包容力だけではなく、まわしを取らせれば寄り切り力も押し出し力もあるだろうが、まアともかくニコニコニコニコしていて、なんでも聞いてくれそうなのだった。  ツマのお願いは、 「ぶつかり稽古させてください!」 というものだった。 「いいスよ」 といって敷島関は、ツマに胸を貸して下さったのだった。  ツマは一気にダアーッと頭からブツカリにいって、でん! と尻もちをついた。 「ちょっと首痛いっス」 とインタビューに答えながらウレシそうだった。  その後、大相撲トーナメントで両国へ出かけた折には、敷島関は仕度部屋に案内してくれて、固くなってる私達を曙関や武蔵丸関、琴錦関や栃東関に紹介してくれ、あまつさえ、ワレワレの持っていたカメラをうばい取って、次々にお相撲さんと一緒の写真まで撮ってくれたのだった。 「敷島! いい人だねー」 「うん、敷島関はねー、親切!」 「そう、で、気さくなタイプ」 「そんでもってフランク」 「サイコー」とワレワレは、ものすごく敷島関に感激してしまった。 「チャンコもうまいし」 「気前もいいし」 「冗談もおもしろいし」 「すっごくイイヤツ!!」 ということになったのだった。だから、ワレワレは国技館で、ものすごく騒ぐのである。今場所も、敷島関に声をかけにいくことになっている。 [#挿絵(img/011.png、横148×縦230、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 救急車は大ゲサか? 「救急車は大ゲサすぎる」 と人は必ず思うらしい。  旅先で、ツマが具合悪くなった。吐き気がして、腹痛胃痛がある。高熱がありフラフラしていて、いかにもつらそうだ。  ホテルのフロントに電話すると、かかりつけの医者は、今日が休診日だという。それなら救急車を呼ぶかタクシーで病院に出かけるか、どっちかしかない。  病院の住所は教えてもらった。救急病院である。電話して容態を告げたが、答えは「連れてこい」というだけだ。 「医者に診てもらったほうがいい」 と私は言った。しゃべるのもやっとのような様子のツマが、ちょっと待ってくれ、というのだ。  今、クルマに乗ったら、クルマの中で吐きそうだ。実際、先刻から何度も吐いている。タクシーで吐いたらタクシーは嫌がるだろう。私がタクシーならやっぱり嫌だ。 「それなら救急車はどうだろう?」 と私は言ったのだ。救急車には、患者が吐いても、その用意があるだろう。病院へも間違いなくたどりつけるし、患者の扱いには慣れている。 「救急車は大ゲサすぎる」 と、息たえだえみたいにして、しかも言うのだった。救急車を呼ぶしかないだろう、という時に人は必ずこう言うのである。 「救急車は大ゲサすぎる」  私も救急車をすすめられたことが二度あった。そうしてやっぱり、二度とも同じセリフを言ったのだった。 「救急車は大ゲサすぎる」  一度は交通事故だった。自転車に乗っていて、オートバイと衝突した。自転車は大破、だが私は肘をすりむいただけだった。  通行人がたくさん集まって来ていて、口々に言った。救急車に乗ったほうがいい。どこをどう打っているかわからないから。いや、今は平気でも、後にどうなるかわからない。行ったほうがいい。今呼んでくる。 「いや、でも、救急車は……」  大ゲサすぎると私は言った。どこも痛くないし、こうやってスタスタ歩ける。言ううちにサイレンを鳴らして救急車が到着し、その場の親切な人達におしこまれるように、私は救急車に乗った。  そこに寝て、と言われて、どこも痛くないがそこに寝た。幅の狭い、ビニールのつるつるしたベッドだ。  救急病院に着くと、歩けますからと私は自分で立って、自分でドアをあけて車を降りた。けたたましいサイレンの音に、どんな血だらけの患者が出てくるだろう? と、好奇の目をした入院患者の人々が、窓からいっせいにこちらを見ていた。  ミイラ男のように、顔じゅうぐるぐる巻きに包帯をしている人、首から手をつり、松葉杖をついた人達が、救急車から降りてきたのが私だけだと知ってガッカリするのがよくわかった。あの時はたしかに救急車は大ゲサだった。  二度目は原因不明の背中の激痛にみまわれた時だった。駅の改札でうずくまってしまった。死ぬかもしれないと思うほど痛かった。  結局、それは尿管結石というもので、ありふれた「病気とも呼べない」病気なのだったが、その時は原因不明の激痛である。いったんは断って仮眠室に寝かせてもらっていた私が、自分から、声をふりしぼってこう言った。 「ずいまぜん、ぎゅうぎゅうじゃよんでぐだざい」  あの時も、後になって思えば、救急車は大ゲサだったかもしれない。結局はただの尿管結石だったのだから。  路上観察学会の旅先で、赤瀬川原平さんが具合が悪くなった時も、やっぱり赤瀬川さんはこう言った。 「救急車は大ゲサすぎる……」  その時は、藤森照信さんと私が説得した。救急車はこんな時にこそ乗るものだ。オレなんか、もう二度乗った、と二人とも二度乗ったので強気だった。  藤森さんは、二度とも食中毒だったらしい。藤森さんの救急車体験が似たような病状であったこと、食中毒はバカにならないというコトバに説得されて、赤瀬川さんは救急車に乗ることに同意した。  結局、食中毒だったのか、ウィルス性の胃腸炎だったのか、病名は定かにならないまま、その日に退院ということになったのだったが、ツマの病状も赤瀬川さんの時と同じ経過をたどった。  救急車で病院へ行き、診察をうけて血液をとられ、注射点滴をされて、病名は「急性胃腸炎」。一日安静にしていて、翌日には治っていた。 「救急車は大ゲサ……」 だったのかどうか? じゃあ、大ゲサじゃない救急車に適当な病状ってどんななのか、よくわからない。  顔に血の気もなくまっ白で、ガタガタ震えながら、ふらついて、意識がボーッとしており、ロレツも回らない。しかも痛くて、吐き気もある。そこまで病人でも、救急車を呼ぼうとすれば、 「救急車は……」大ゲサすぎるのではないか? と患者は思うのだ。  ともかく、結果は無事に済んだ。ホテルの人や救急隊のみなさんにとても感謝している。素早く流れるような、プロの対応だった。 「救急車は……」エライ! とワレワレは思った。 [#挿絵(img/012.png、横125×縦236、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ほんとのところ  ねじめ正一さんと話していたら、 「アノ、ホラ、エート、東宝の女優でものすごく有名な、ホラ、ホラ」 と言いだした。 「ホラ……って言われてもなァ」 とからかってやったのだが、しばらくして、 「あの、こないだシンボーさんが教えてくれた映画のカントク、なんていったっけ?」 と聞かれて、今度はこっちが困った。 「エ? 映画カントクの名前を? オレが教えた? オレが?」 って、教えたことを忘れてしまったのだ。  いろいろ話しているうちに、そういえば教えたのは思い出した。 「ああ、そう、そう、教えたなァ。アレでしょ、アノ、ホラ、ホラ」 「ホラって言われてもなァ」  結局、五、六時間一緒に飲んでいたけど有名な東宝女優が誰なのか、私の教えたガイジンの映画カントクの名前がなんだったのか、わからずじまいだった。  タクシーで帰ろうというので、乗り場でもう一度訊いてみた。 「思い出した? 東宝女優」 「いや、ダメ、くやしいなァ、タクシーん中で思い出そ」 と言って別れて、乗り込んだ途端、私はひょいと思い出した。  イランのアッバス・キアロスタミ監督だ。『友だちのうちはどこ?』とか、『そして人生はつづく』、『オリーブの林をぬけて』みんな面白い。大好きな監督なのだ。  最近はこんな時、だれかが必ず、「老人力」とヒトコト言うと、ひとしきり笑い、何事もなかったように先へと進む、というふうになっている。  そのうち、えーと、なんだっけ、こういうときにいいコトバがあったね、なんとかって。思い出せず、まァいいか、と先へと進むことになるんだろう。 「そういうトシになったんだよな」 と、これもまた、よく口にするコトバなのだが、ほんとにそう思ってるのか? というと、どうもそうでもない気がする。  やれ「老眼だ」「歯が抜けた」の、「早朝から目が覚めちゃう」のと、老人現象を言いつのるのは、自分が老人になったっていうことに慣れてない、その新鮮さをおもしろがっている状態なのである。  こんな文章、若い人が読んだら、「ジジイが何言ってんだか」と言われてそれでしまいだと私は思う。  どうしてそう思うかといって私もそう思っているからだ。現時点でそう思っている。  思い返してみると、自分がいくつになったというような、他人にとってはどうでもいいようなことを、けっこう何度も書いていた気がする。  私も三〇になってしまっただの、四〇になった五〇になったって、そりゃあ一〇年経てば一〇歳年はとるんだよと、自分でツッコミたくなるような文をずいぶん書いた気がする。  どうして、そんなこと書いてしまうのか? と考えれば、それはやっぱり、そのことが自分にとって新鮮なおどろきであったからだろう。  一〇代のころには、自分が二〇になったらどんなだろう、三〇になったら、四〇になったら、五〇になったら、と、その都度そんなことを思ったのだろうけれども、なってみると、全然、内実はかわってないのだ。  最近はだから、六〇にも七〇にも、もうなったも同然だという気がしてきた。どうせ、大した違いはないのだ。  ないだけでなく、いつまで経っても「実年齢」に慣れないままだ。  実際、まだ四〇代に慣れてないうちに、もう五〇代になってしまった。このままいったら、五〇代に慣れないうちに六〇代、六〇代に慣れずじまいで七〇代、そしていずれ、そのうちオダブツだかオサラバだかになってしまいそうだ。  ひょっとしたら、と思うのである。いままで、大人だなァ、オヤジだなァ、ジジィだなァと思っていたような人も内実はまるっきりコドモだったのかもしれない。  五〇、六〇ハナタレ小僧、なんていうコトバを聞いたことがあるけれども、七〇、八〇になったら、だまってたってハナくらいタレてくるわけだし、ようするに人間一生ハナタレ小僧ってことになる。  私の母親は、もう八六になるけれども、どうも話の様子だと自分は、 「お婆さんじゃない」 と思ってるようなのだ。近頃は耳も遠くなっているし、こみいった話を聞くこともないけれども、どうもこの信念が変わったようには思われない。  いつだったか、お婆さん二人が、電車で話してるのを聞くともなしに聞いてたら、自分が「お婆さん」に間違われたって話だった。  なんだ、おふくろだけじゃないなやっぱり、とその時思ったのだ。  自分でも、五三までやってきたら、こんなことだし、ほんとはみんな、大人だ大人だと思ってた人も、コドモだったのじゃないか? と大発見したつもりである。  もっとも、これは、おふくろや、電車のオバアさんや、私に社会性だの責任感だの自覚だのが欠けてるってだけの話かもしれない。  だが、なんかそこらじゅうの、オジイサンだのオバアサンだのに、アンケートをとってみたくなってしまった。ほんとのとこどうなんだろう? [#挿絵(img/013.png、横133×縦227、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] わらしべ長者 「シンちゃんアノサ」 とツマが言った。昭和通りの中央分離帯のとこに、ハボタンとか植わってるじゃない。 「あそこに、ダンボールの棺桶みたいな家で寝てるホームレスの人がいるのよ」 「ああ、あの家ってさ、寝袋のようでもあり、棺桶のようでもあり、シェルターのようでもある。究極の家だよなー」  私はけっこう、ダンボールハウスに憧れを持っているらしい。実際に住んだら寒いだけなんだろうけど、風に吹かれながら傍を通ると、なんだか、あっちの方が「よさそう」に見えてしまうのだ。 「となりのダンボールハウス」ということだろうか。 「それもあるけど……」 とツマが言う。今はその話じゃない、ということらしい。 「そばにリヤカーも置いてあってさ、オジさん、ダンボール回収して暮らしてるらしいんだけど、そのリヤカーに満載したダンボールの束の上に、ものすごく無造作にルイ・ヴィトンのボストンバッグ、大っきいヤツ置いてあんのよ」 「ふーん、で?」 「で? って、ルイ・ヴィトンのボストンバッグだよ」 「高いの?」 「高いんじゃない。ルイ・ヴィトンだし」  そりゃあ、ダレかが要らなくなって捨てたのを、資源を大切にって観点から再利用してんじゃないの? と私は思ったのである。思ったのでそう言った。 「だって、新品同様だったよ」 とツマは言うのだった。あんなとこに無造作に置いといちゃ、ダレかにもってかれちゃうんじゃないか? と心配しているらしい。 「いくら、ビトンだか何かしらないけど、ホームレスの人から、物を奪おうなんて、そんな羅生門みたいな人はいないだろう」 と私は言ったのである。 「いや、あれはもってかれるよ」 と、ツマはなおも、ビトンのボストンバッグの安否を気づかっているのであった。  翌日、ハボタンの植わってるとこをまた通ったらしくて、再度報告があった。 「シンちゃんアノネ、あのオジさんは、どうもルイ・ヴィトンのコレクターだね」 「え?」 「だってさ、昨日のヴィトンとは別に、なんとかっていう市松模様になってるヴィトンの書類カバンみたいなのも、持ってるよ」 「それも無造作に置いてあんの?」 「うん」 「そりゃあ、アブナイじゃないか」 「うん」アブナイよ、不用心だよ、と言うのだった。  私達は、そのホームレスのおじさんの名字がわからないので、ルイさんと呼ぶことにした。  ルイさんは、もともとは、すんごいお金持だったんだけど、バブルがはじけて、今の商売をするしかなくなった。けれども、もってたボストンバッグと書類カバンだけは、売ったり捨てたりするにしのびなく、いまでもつかってるのじゃないか。 「それにしちゃ、あんなとこに置きっぱなしにしてるんだから、それはチガウと私は思う」 「ルイさんは、アウトレットツアーでイタリヤとかフランスとかに行ったかもしれない」 「ああ、ブランド志向のホームレスなんだ。家まではまだ手が回んないけれども、せめて身の回りのものは、ビシッとブランドものでキメたいタイプかな」 「いや、家ないとパスポートとかとれないと思うんですけど」 「だから、パスポート取ったときは家あったわけよ。一〇年のヤツ取っといたから」 「じゃあアレだ、ルイさんはシンちゃんみたいにダンボールハウス好きで、あそこに寝てるんで、本当はダンボールの商売、ムチャクチャ軌道にのってんじゃないの?」  今度、松屋の一階にできたルイ・ヴィトンに行って、カードで買ったと思うと言うのである。 「俺は、国際的インボー説だな、ルイビトンの競争会社が、東京中のホームレスに配ったと見たね。ルイビトンてよくホームレスが持ってるバッグ? とかって噂になったら、ブランド的にものすごくダメージあるじゃん」 「私はね、わらしべ長者説、かもしれない」 「わらしべとビトンと替えたヤツがいるの?」 「そんなにスグじゃない。いろいろあって、結局ボストンバッグと、書類カバンに、そのなんかと交換した説」 「そうか、そうすると、オジさんはあのカバン、いくらするのか、わかってない可能性あるな」 「そうなのよ、だから私は心配してんのよ、あんなに置いときっぱなしで、自分は棺桶で寝てるんだから」 「大事なもんは、ちゃんと家ん中に保管しとかなきゃなァ」 「でも、保管すると、自分が寝るとこなくなっちゃうのよねー」  私は、そのバッグが、なにかもうちょっと、オジさんの暮らしに役に立つものに交換されるといいなと思っているのである。 [#挿絵(img/014.png、横128×縦212、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 長瀞のロウ石  長瀞へ臘梅を見にいったのである。臘梅はロウバイ科の落葉灌木で、中国の原産。高さ約三メートル、葉は卵形で両面ともざらざらしている。冬、葉に先だって香気ある花を開く。外側の花弁は黄色、内側のは暗紫色で、蝋細工のような光沢を有し、後、卵形の果実を結ぶ。観賞用。唐梅《からうめ》、南京梅。  というのは辞書に書いてあったのを引き写したのである。まァ、そういう花がいま咲いてる。 「香気あるってさ」 とツマがいった。わが家は全員、香りのある花が好きだ。梅、沈丁花、くちなし、泰山木、蓮、咲いたら「嗅ぎにいく」。  ロウバイについては、話には聞いていたが、まだ、嗅いだことがない。「是非いかなくては」というので、計画が進行しているという。 「温泉つきだ」  もちろん、私に反対はない。こうした計画のあるおカゲで、私は時々、骨休めができるのである。  毎日、仕事に追われていて、貧乏性ときてるから、だまっているとのべつまくなしに仕事をしてしまう。現に今だって、三連休を仕事でつぶしているのだった。  当日は、仕事のキリがつかず、出発をだいぶ遅らせてしまった。といっても、長瀞といえば、池袋から東上線か西武線にのってスグだろ、と思っていたらそうでもなかった。  長瀞、けっこう奥なうえに、外の景色の雪がどんどん深くなっていく。けっきょく第一日は宿について、温泉に入り、めしを食って寝るダケということになった。  もっとも、第二日目だって、アレコレする予定はない。臘梅の咲いてる山に登って、匂いを嗅いでくる、ダケである。  長瀞には、小学校の三年生のころにだか来たことがある。岩畳といわれている名所で記念写真を撮った。撮り終って「ハイじゃあバスに戻るー!」と先生にいわれている時に、岩の上から、少し身を乗り出して、川を見たと思う。  深い緑色をしていた。すると、川の向う側を、全員、笠をつけた舟客を乗せて、細長い和舟が通り過ぎていくのが見えた。  長瀞の思い出といったらそれだけである。あとは何を見たのか、なにをしたのか、まるで記憶がない。  いや、ひとつだけあった。おみやげに、ロウ石の置き物を買ってきたのだ。が、買ったところの記憶はない。  しかし確かにロウ石の置き物は、しばらく机の上におかれていた。山があって、水車小屋のあるような、山があって蓑笠つけたような人物が彫られてあるようなそんなヤツ。  何が彫ってあったのか、アイマイなのは、いくらもしないうちに、石にぶつけて、小さくして、ロウ石として実用に供してしまったからである。  ツマは長瀞に来たことはあるが、一切合切、何も覚えていないという。記念写真もない、来なかったも同然だという。 「長瀞って、つまり何?」 と聞いた。オレに聞かれても……。  埼玉県秩父郡東北部の名勝地。荒川の峡流に沿い、灰緑色の結晶片岩の垂直の節理が水蝕によってあらわれ、特有な峡谷風景を形成している。  と、辞書には載っている。  ロープウェイの客は、全員、我々より年上だった。だったがみんな、あたかも遠足の小学生のように陽気だった、というかヤカマシかった。  ロープウェイに乗った途端に「臘梅の香りがする!」と主張する超能力者のおばさん、とか、ロープウェイを作る人は、こんな山の上まで、ワイヤーとか持ち上げて大変だ、 「ヨーイなこっちゃないぞコレ」 と何度も主張するオジイちゃんとかだが、私たちも遠足気分であるから、オジイちゃんも、オバアちゃんもカワイイのである。  ロープウェイを降りると、そこはもう、ほぼ山頂である。山道が、あと少しだけあって、それを登っていく途中に、臘梅が植わっている。  快晴の青空をバックに、黄色のつぼみと花が美しい。が、香りの方は期待が大きすぎたせいか、今ひとつ。山頂で敷物をひろげて、用意の酒を塩豆をアテに飲む。  日なたぼっこをする感じで、なかなかいい。のんびりする。写真撮影が趣味の老夫婦、登山好きの老夫婦、おしゃべり好きの婦人会、などが通りすぎ、あるいはそばで、同じように敷物を敷いて坐り込んだりする様子をみながら、だらだらと一時間ばかり過ごした。  下山する時、嗅ぎおさめに、いくつか思いっきり鼻から吸い込む、たしかに芳香があるが、ツマも私も、白梅の香りの方が好みだという結論に達した。  駅前で、昔ながらのおみやげ屋さんを見つける。ウィンドウに飾ってあった、箱の印刷が褪色してしまった「きせかえエミちゃん」対象年齢三歳以上、というのにツマは興味を示して購入。八〇〇円。  私はビニール袋に入った、不定形のロウ石のかけらを買った。一袋一〇〇円。  電車の中でツマが主張した。 「暴走族は、スプレーでいたずら書きをやめて、ロウ石で書けばいい」  そりゃいい考えだと、私は賛成した。  そのへんで拾ってつめたような(枯葉が一枚混入してる)一袋一〇〇円のロウ石は、まだ未開封で机の上に置いてある。 [#挿絵(img/015.png、横157×縦222、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 風流だけど…… 「運転手さん、青梅って、なんで青梅なんですかねェ」 とスエイさんが訊いた。そのことなら私は知っている。青梅の由来については以前に書いたが、みなさんはもうとっくに忘れているだろう、そういう話なのだ。  が、その話を世の中に広めたい人(アダチさんという)がいて、そのアダチさんには、温泉宿やレストラン情報など今回の旅にあたって、色々とお世話になっている。  どうも、おあつらえな質問じゃないか、と私は思った。例の話をここで運転手さんがしてくれれば青梅の由来が広まって、アダチさんはうれしい。私が身構えて待っていると運転手さんはこう言った。 「梅があるから……ですかね」  運転手さん、それを言うなら、と私はつけ足した。 「青梅は……よそよりちょっと梅が|多め《ヽヽ》だから……」でしょ。  一同で笑っていると、立派な造りの茅葺き屋根の家の前を通った。文化財の指定でもあろう、何か立て札が立っている。こんどは質問好きのヨシコちゃんが訊く。 「あっ、稲葉家って書いてあった。運転手さん、稲葉家って、どういう家だったんですか?」 「え? イナバケ? ああ、あの古い家ですか……イナバさんという人が住んでた家でしょう」  わっはっは、とワレワレは笑った。運転手さんは「答え」が上手だねえ。まちがいのないことを言う。とっても正しい。  ワレワレは四人、スエイさんとヨシコちゃん、それに私とツマだ。花の香りききを、気に入ってくれて、去年の修善寺に続いて今年は青梅の吉野梅郷にやってきたのだ。  東京ではとっくに、梅が満開でスエイさんはヤキモキしていたらしい。 「この日程で大丈夫ですか?」 「大丈夫、ワレワレは既に二回、梅郷経験してますから」 と言っていたのだが、念のために観光課に確認してみたら、まだ三分咲きくらいだという。紅梅はだいぶ咲きましたが、白梅は……。「何ィ?!」と、私とツマは色めき立ってしまった。なんといっても香りは白梅である。  吉野梅郷についてみると、やはり白梅はまだまだなのだった。まるきり咲いてないわけじゃないけれども、だいぶさみしい。  だが平日だというのに、人出だけはかなりある。ご年輩が多い人出だがそのそれぞれが、口々にボヤイている。 「去年は終ってたんですよ」 「と思えば今年はコレだから」 「梅は時分の見極めが難かしいネ」 「ここは北向きの斜面だから」 「そう、三月なかごろだってね例年は、だから例年並みなんですよ」  そうか、ワレワレが来た年は暖冬だったのだ。梅は日照で開花がきまるらしい。たしかに南向きのあたりは、かなり咲いている。  繰り言をいっていてもはじまらないので、咲いてる紅梅から香りをききだした。  スエイさんは、梅の枝を歯ブラシかなんかのように、鼻の穴のあたりにゴシゴシこすりつけている。去年は、ワレワレが|あまりに《ヽヽヽヽ》花と鼻をくっつけるのを奇異の目で見ていたっていうのに。  枝に鼻を押しつけておいて、ズルズルズルっと顔を移動させるっていう大技も繰り出した。  そうこうするうち、お腹も空いてきたし、体も冷えてきた。どこかに陣地をつくって、宴会を、ということになって、土地を物色する。敷物は「たたむとカバンみたいな形になる」ベンリなのを用意してあった。  ところが、どうも斜面ばかりで、落ちつかない。こんなとこに敷物を敷いたなら、なにもかも手でおさまえていないといけない。  絶好の物件があったのだが、そこは既に先客が予約済みである。広げられたシートに、ダンボール箱がひとつ、おそらく宴会用具一式だろう。だが、人影はない。  はじめのうちは、あんまり、そばにいくのも、と遠慮していたのだが、いかんせん、そこがいかにも平らなもんだから、じりじりにじり寄っていってしまう。  ついには敷物同士くっつけて、まるで二世帯住宅みたいにしてしまったかと思うと、尻だけはそのヨソンチの座敷に居つかせている。  私がいいココロモチに、赤ワインをやってると、ふと人の気配があり、こちら側を見ている三人が、「あ! すいません!」といっせいにあやまった。  すばやく振りかえると、四十がらみの、おとなしそうな人が、ぬっと立っている。 「あ! すいません」と、これには私もオドロイて、ただちに尻を我家の座敷の方へともどしたのだった。  そのおとなしい人は、シートをバタバタバタと折りたたみ無言のうちに歩み去った。  すっかりかたづいたので、今度は大イバリで、その特等地で酒盛りのやりなおしをしていると、いくらもしないうちに曇った空からチラチラと落ちてくるものがある。 「風流だねー」と私は言った。  雪が降ってきたのだ。 「うん、風流だけど……」 とみんなが言った。 「そろそろ撤収でしょう」 [#挿絵(img/016.png、横117×縦229、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 竹取りの翁  そのお爺ちゃんを「竹取りの翁」と名付けたのは後のこと、その時はまだ、得体のしれない酔っぱらいの爺さんである。  竹取りの翁は、竹やぶの方から、自転車を引っぱって出てきた。顔が真っ赤だ。ちょっとたのしそう。  われわれは私とツマ、温泉に骨休めにきた。トーヘンボクだったか、トンチンカンだったか、そういうちょっと人を小馬鹿にしたような屋号のそば屋で、宿へ行く前に一杯やって、われわれもまァ、ちょっといい感じである。  で、記念写真を撮っていたのだ。そこへ竹取りの翁の手がぬっと出て、シャッターを押してやると言う。 「ひまだからね、一日に一〇組は、こうして撮ってやってる」  慣れた様子で、立ち位置を指定して、しかし、シャッター押すときに、ガクンと大きくカメラが動いた。 「わ! すげえブレた!」 とわれわれは思った。おそらく写真は全体「心霊」状態だろう。だがまァ、そんなことはいいので、お礼を言って、ちょっとそこで立ち話になった。 「ひまだからね、そのへんの竹を伐って、竹細工をしておる」 のだと言う。コドモに竹細工を教えたりもしてる、ひまだから……とくりかえした。気が向いたらね、寄んなさい気が向いたらね、と赤い顔で言った。近くにくるとお酒くさい。 「はあ」とわれわれは気の向かない返事をして別れた。翁は赤い欄干の橋を、ユラユラたのしそうに自転車を引いて去ってゆくのだ。 「だけどさァ、このへんの竹、勝手に伐っちゃっていいのかなァ」 とツマが言った。なるほど竹やぶといっても、そこらの様子は、温泉街の組合が整備したみたいな散歩道で、庭園風にキレイに手入れがされている。  われわれは宿に泊まって、温泉にも入り、のんびりしたら翌朝はもう帰るばかりだ。この温泉地も、ごたぶんにもれずちょっと寂れている。古い射的屋だの、金棒もった鬼にボールをあてると、サイレンのような(サイレンなのだが)雄叫びをあげるのなんかが、ものすごくアンチックになったまま営業していて、けっこう気に入っている。  何度かやってきて、一通りそれは済ましてあるから、今日はちょっと、遠回りしていままで歩かなかった道を行こう、ということになった。  風はつめたいけれども、日が照って、桜の散るのが美しい。雑貨屋さんの店先に、妙に麗々しく台所用洗剤が飾ってあったりするのもいい。  ニコニコして歩いているとツマが「アレ?」と言った。これ竹取りの翁んちじゃないの?  やめてしまった畳屋さんめいた家。その前にたよりない棚が据えてあって、竹をただ輪切りにしただけの、花入れ、ぐい呑み、筆立て、灰皿、なんかが置いてある。  ちょっと斜めに傾いてたりであまり「商品」には見えないけれども、マジックで一〇〇円だの五〇〇円だのと走り書きした値札もついている。 「あ、やっぱり」と、ツマが店の奥にいた翁に気がつくと、竹取りの翁は、おどろいた風もなく、 「まァ、まァ」奥へ入れと招じ入れてくれた。コドモが二人、一心に小刀で竹を削っている。 「うまいもんだろ、やらせりゃコドモっちにもできるのさ、あぶないだのケガするだのって、やらせないからな近頃の親は……なに? ケガァした? うん、なめときゃ大丈夫」  竹取りの翁は、今日も朝から酔っぱらっているようだ、顔が赤い。われわれにお茶を淹れてくれた。  「好きなもの、なんでも持ってきな、ホラ、これ、これこれ」 と、そこらの「輪切り」を、どんどんくれようとする。 「えーッ? 悪いから、コレ買いますよゥ、この灰皿買います」 とツマが灰皿二ヶ一〇〇〇円を払うが、そちらを見るでもなく、じゃあ、これを持っていけと、泥のついた小さな筍を二、三本、私に押しつける。 「こううして、足ですると、わかるんだ、爺ちゃんは昔っから慣れたもんだからすぐわかる。足でこううしてな、こういう出たてのがうまい、刺身にして食うといい」 「シャテイは、小学校の校長をしとる。爺ちゃんは、こんなぐうたらだけどなあ」 「いや、お爺さんがこうしてコドモに竹細工をさしてる方が、ずっと教育的なんじゃないですか」 とこれは本気でそう言うと、竹取りの翁が、ほんのりうれしそうだ。  コドモ達は、ボッケンをつくっていたのだった。まだ単なる竹の平べったいのにしか見えないが、二人でチャンバラをはじめた。  つっ立っていると、次々にそこらの「竹細工」をくれそうなので、そろそろおいとまをすることにする。 「なんだ、もう帰るのか」 「ええ、また来ますよ」  私はいただいた泥つきの筍をバッグにつめてそそくさと歩き出す。 「今朝、掘ってきたのかなァ」 「そうみたいだな、それでまた一杯やったね、すんげえ酒くさかった」 「今日もアベックの写真撮ってやるんだろうな」  筍は、帰って筍ごはんにしたらとてもうまかった。先の方は酢みそで食べた。  おどろいたことに、後日上がってきた写真は、おそろしくうまく撮れていた。 [#挿絵(img/017.png、横133×縦226、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] じっと手を見る  新建材はコマル。たとえば奥さんに、ちょっとここに棚吊りたいんだけど……と言われたら、よしきた! まかせとけってんだい、というので旦那はトンカチでトントントーンと釘を打って、あっという間に棚を吊って、どんなもんだい、あらタノモシイよォ、うちのシトは、というふうに昔はうまいこといったものだ。  新建材は、そこがそういかない。トントントンと釘を打つと、いつの間にかプス〜ンといきなり釘が利かなくなる。  これは壁紙の下が石膏ボードというもので出来ているためであって、この石膏ボードに釘を利かすためにはアンカーとかいうもので、予め釘の利くようにしないといけない。  それはまァ、わかった、しかたないからそのアンカーとかを使うけれども、このアンカーとかが、むやみにグルグルねじこまなければいけないのである。  力まかせにねじこむ必要があるので汗が出てくるほどである。プロは電動やコンプレッサーの自動ねじ回しを使うから、あっという間に、こんなものねじ込んでしまうが、単なる旦那はそんな機械はないから、手でやるしかない。  やっとの思いでやりとげて、息を切らして、ふと手を見ると、ナンと手の平にマメができて、できたばかりかそのマメが既につぶれている。  そうっとマメの皮をかぶせて、バンソーコーを貼ってくっつけてしまおうと思った。 「そのマメはね、つかないよ」 と、ツマがおごそかに予言した。いったんはがれた皮は、くっつかない。だがその下の皮膚が、すぐに再生するから、しばらくそのままにしておいたほうがいい。  下の皮膚が、ちゃんと「手の平用」に使用可能になった暁に、そのとれた皮を切りとるのがよろしい。 「ついては……」 とツマが居ずまいを正した。その皮を切りとる権利を、私にくれたまい、という。  しんちゃんは、そういう場合に大概早まって、まだ時期尚早のうちにとってしまいたがる。  イラストを描いてる時だって、ちょっと待てばいいのに、まだインキの乾かないうちに消しゴムで下書きの線を消そうとするから、インキを引っぱっちゃって、それを修正するとかって余計な仕事をふやすのだ。  そう、それはたしかにそうである。早く完成の状態を見たいために、いつも失敗する。何年やっても、いまだにそうだ。なるほど、マメの皮も、一刻も早くとってしまいたいタイプだ。 「しかし、そんなことをすれば、いままで痛くないところまで痛くしてしまうので、早まっていいことはひとつもない」  おっしゃる通り! なのである。  それでは、ウチの奥さんは、そういうことがないのか? といえば違う。やはり一刻も早くなんとかしてしまいたいほうだ。  ニキビができた、と見つけるが早いか、つぶしてしまう。つぶすのはイケナイと重々わかっているが、そうできない。  要するに、つぶすのが好きなのだ。マメの皮も同じ、早いとこ、ピッとはがしてしまいたいのである。が、自分のならともかく、旦那のマメの皮なので、痛いうちにはがすのはさすがに憚られる。  それでまァ、万全となったところでなら大イバリではがせるわけで、その権利を「よこせ」ということなのだった。 「勝手にハガしちゃダメ、ハガすのは私ですから、私の許可なしにハガしたりしないように!」  ところが、バンソーコーは、顔を洗ったり手を洗ったりすると、ハガれそうになる。バンソーコーの際のあたりが、黒く汚らしくなる。  イヤだから、ハガして、ついでにマメの皮はどうなったかな? と思って見たりするわけだ。 「オヤ? くっついてるみたいだな、くっついたかな?」 と思って、皮のはしを、ツメで引っかいてみたりしていると、何か視線を感じる。権利保有者が鋭い視線を送っていたのだ。 「イヤイヤ、ハガそうってんじゃない、もうくっついたかなァと思って」 「くっつきません」  そのままにしておれということだった。  私は、私のマメの皮をむく権利を既に譲渡してしまっているのであるから、みだりにマメの皮に触れるのは禁止なのだ。  二日後くらいだったろうか、ツマが、私に椅子をすすめた。まァ座れ、と目顔でいっている。  まァ座った。  と、ツマは一礼して、ツメ切りを、どこからか取り出した。マメの皮を、ピッとハガしたいのは山々だが、夫婦とはいえ一応他人のマメの皮であるから、正式な道具でこれをチョン切ろう、ということであろう。  まるでお相撲の断髪式のようである。私もおごそかな気持で、自分のマメの皮の切られるのを見ていたのだった。  今、手を見ていてこの数日来のことが、脳裏に去来している。 [#挿絵(img/018.png、横148×縦229、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] トンパ文字 「トンパ文字というのがある」 と言うのである。言うのはツマ・文子である。 「中華人民共和国・麗江納西(ナシ)族自治区・麗江県城へ飛ぶゾ」 と、突然の通達である。  私は007ではないが、こうした指令に反対することはめったにない。わかりました行きましょう、と即答する。仕事がつまっていようが、臀部にオデキがあろうが、通達に従わないということはない。  何故ならば、そうしないと一年三六五日、のべたらに仕事場にはりついてしまうことになる。  ツマ・文子は、シンボーズオフィスのレクリエーション部長。年に何度かこのように社員の福利厚生のための企画を立案する。  企画に乗って、それまで何の興味もなかった、未知の場所へ出かけてみると、たいがいこれがオモシロイのである。  トンパ文字(東巴文字)は中国の雲南省、麗江県で実用されている、納西族特有の象形文字である。ナシは中華人民共和国成立後の民族名で、現在、麗江に住むナシ族の祖先は、北から移り住んだ羌人《きようじん》だといわれているが、彼等は隋・唐時代には金沙江の上流域に住み、磨些とか麼梭などと(なんと読むのか私は知らない)呼ばれていたそうだ。  もちろん、こんなことは現地に行くまで、まったく知らなかった。現地に行っても知らないままで、帰国してガイドブックを読んだ今、はじめて知ったのである。  ナシ語は、シナ・チベット語系のイ語の一派だそうだが、そんなことがわかったからといって、一語たりともナシ族のしゃべる言葉がわかるわけではない。  ところが、中国人一般がそうであるように、ナシ族の人々も、こちらがわかろうがわかるまいがおかまいなしに、そのわからない言葉であくまでも会話を貫き通す。  しかし、どこか純朴でハニカムところもあって、そこが都会の中国人とは違うのだった。  新しくできたらしい、近代的ホテルに入っていくと、カウンターにいるのは、ナシ族の民族衣裳をつけたハタチ前後の若い女のコ。  ツマがカタコトの英語で、 「部屋見セテクダサイ、ケシキイイノ、日当リイイノ、スキ。ドゾヨロシク」 と言うと、女のコは愛嬌タップリの笑顔でニッコリ。 「アー、アー、本日ハ晴天ナリ」みたいなことを言っていて、こちらもかなりなカタコトである。 「ワタシ、タチ、部屋見タイ、部屋アリマスカ?」カタコトカタコト。 「ア、アーン、アー、アア、アーン」と女のコは今にも「渚のシンドバッド」を歌いそうだ。  この人は我々よりも英語がニガテだ。はじめてチェックインカウンターで、我々より英語のニガテな人が現れた! と思って我々はニコニコした。女のコもニコニコ。 「可愛いーい、とっても可愛いなあ、この子」と、ツマもご機嫌である。  我々はカタコトの英語はひっこめて、カタコトの漢文で筆談作戦に出たのだった。 「我、要部屋」  うなずいている、これはまァ、ホテルなんだし、わかって当然だろう。 「窓外風景絶佳、有? 没有?」 「日当良好、賃安価、冷暖房完備、築何年?」 とは書かない。それは不動産の三行広告だ。  やがて、えなりかずきに激似の、オモチャの兵隊みたいなボーイさんが鍵束を持ってやってきた。部屋を見せてくれるのだろう。  どうせ通じない同士と思ったのか、ツマがまったく通常の日本語でえなり君に話しかけた。 「こんにちは、アノネ、今度日本人が来たら、エナリデース、ドーモって言うといい、絶対ウケるから」 「?」  えなり君は、ちょっとコマッタような顔で、ニコニコしている。 「エナリデース……ハイ!」  どうしてもエナリデスを覚えさせようと思ってるらしい。 「エナリデース……サン、ハイ!」  えなり君は、困った顔のまま、とある部屋のドアを開けた。それがナント素晴らしい景色なのだ。中国式の窓枠ごしに、黒い瓦屋根の美しい街並が一望できる。  我々はその部屋を気に入って、結局そこに四泊した。部屋の前には広いベランダがあって、そこからは、玉龍雪山も遠望できる。  そうして、四日間、そこから旧市街をウロついて、トンパ文字の入ったTシャツやら、トンパ文字の掛軸やら、トンパ文字の字引きやら、まァ、徹頭徹尾にトンパ文字な買物をした。  ツマは象形文字が好きなのである。以前は「ヒエログリフ」にも凝った。あのエジプトのピラミッドなんかに彫りつけてある、あれだ。それで、ヒエログリフの名刺とかもつくった。  何でそんなに象形文字が好きなんだろうねえ? と私が聞くと、 「ウーン、象形文字はカワイイからね、カワイイでしょ? カワイクないの?」  トンパ文字は、たしかにカワイイ。 「あのさァ」と私は言った。チェックインする時、なんで象形文字で筆談しなかったかね。 [#挿絵(img/019.png、横126×縦195、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ホタルがいっぱい 「まさか! かぐや姫?」 と小学五年生の私は思った。庭の笹の葉の一枚が、ピカーリ、ピカーリと光っていたからである。  そばに寄って注意深くそおーっと葉の裏をめくってみると、そこにいたのはかぐや姫じゃなく、どうやら「単なる蛍」だった。  しかし、私が単なる蛍の実物を見たのも、その晩が初めてだったのだ。単なる蛍は、まるで息をするようにピカーリ、ピカーリと光っていて、私はその晩のことを鮮やかに記憶した。 「そうかあ、じゃあしんちゃんに蛍のたくさん飛んでるとこ、見せてあげたいねえ」 と、レクリエーション部長はそう言って、もう十数年を経ていた。  それが突然やぶから棒の計画が発表されたのだ。長崎県の五島列島に蛍ツアー、参加人員は計二名。  即座に計画は実行に移されたが現地の蛍情報はスコブル悲観的だ。 「大体がですね、湿気のあってムシムシする夜がいいとですよ、雨の降りよる前とかですね、八時から九時くらいが、よく出るとですばってん、今日みたいに空が晴れよると、あんまり出なかですばってんが……」 「運転手さん、そう言わず……東京からわざわざ来ましたばってんすから……」と私は言った。 「雲もちょっとは出てきたばってん」とツマも言った。  出るときは出るんですよねえ、いっぱい!! 「ハイ、そりゃあ出るときはもう、気持悪かごと出よりますばってんが、今日は、晴れとるばってんね」と運転手さんは、あくまでばってんなのだった。  急にあたりが暗くなって、目的の川のそばへ来たらしい。と、 「あっ、いた! いたいたいた!」 とツマが第一蛍発見!! ただちにワレワレは橋のそばでタクシーを降りた。  まだ八時には、ちょっとあるというくらいな時分だ。九時までここにいるので、その頃にまた迎えに来ていただくことにした。  しばらくすると、はたして、蛍は次々と出て来たのである。  あたりは真っ暗、街灯もなく、廃屋があるばかり、田んぼの向うに工場めいた建物があって、わずかにそこの灯りが見えるくらいだ。  蛍を見るには絶好の条件だが、その晩は妙に気温が低いのだった。浴衣がけで来るつもりで用意もしてきたが、寒くてとてもそんな風流はしてられない。  空はたしかに晴れていて、星が降るようだ。そうして、ほんとに星が降ってきたみたいに山陰の暗がりを、蛍が飛んでいる。二〇匹から三〇匹くらいか、私がいちどきに見る蛍としては、史上最多。十分納得できる数である。 「いいねえ、風流だねえ」 と私は、すこぶるよろこんでいる。 「いいねえ、風流だねえ、でも寒いねえ」 とツマ。たしかに寒い。そろそろ、迎えの車に来てほしい時間になっていた。  ところが、これがいっかな来ないのだ。辺りは真っ暗で、人も車も通らない。いよいよ「ここで一晩野宿になるか?」と決意した頃、約束の車がやって来て、第一夜は無事に終った。  第二夜。実はこっちのほうが「本命」のつもりの隣町。昼間は一日、上五島の教会見物で時間を潰し、腹ごしらえのすし屋で情報収集。ところがどうも思わしくない。  「あそこは河川ば、いじりよったけん、あんまり出なかとですよ」  第二夜の運転手さんも同意見だ。しかも、昨夜我々が見たあたりが運転手さんの地元で、どうも、地元をヒイキしてる様子である。 「あー、全然出とらん、比較にならんとですよ」 とくさすのだ。たしかに、昨夜のところのほうが、蛍の出がいい。急遽、引き返すことにした。 「ホラホラホラ、ホラホラホラ、ホーラホラホラ」 と運転手さんが騒ぐのは、ヒイキの場所についたからだった。いると言うのだ。  たしかにいる。昨夜よりさらに多い。ホラホラ、あすこにも、ホラここにもホラホラホラ、と、たしかにいるのだが、あんまり騒ぐので可笑しくなる。  運転手さんは、地元のほうが蛍が沢山でトクイなのだった。全然比較にならんとですよホラホラホラ。 「あ、コービしよる。アララ、消えたね、電気ば消しましたかね。あはは」 とムチャクチャ陽気だ。楽しい人なのだ。ちょっと楽しすぎるかもしれない。  と、軽自動車がやってきて止まると、バタンとドアの音がする。  地元の人らしいおばあちゃんとその連れ二人。おばあちゃんの大きな声。 「あ、ゼーンゼン出とらん! 見るまでもなか、ゼーンゼン出とらん!!」  そして、またバタンとドアの閉まる音がして、その間二〇秒。軽自動車はとっとと帰ってしまった。  出とらんことはないのだ。一面に蛍である。 「こんなに出てるのにね」 と運転手さんにそう言うと、やや曖昧な間があった。本当はあんまり出とらんと思ってるらしかった。 [#挿絵(img/020.png、横160×縦206、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 虚心坦懐、熟慮する。  TVを見ながらツマに言った。 「まーた小泉さんが熟慮してるよ」 「なーにー?」  ツマは台所でゴハンの用意をしているのだ。  水を出しているとこっちの声が聞こえにくい。 「なんだって?」 「いや、小泉さんがさ、ジュクリョにジュクリョを重ねてるんだよ。ジュクリョにジュクリョを重ねると都合二ジュクリョってことになるナ」 「都合って、どこにオーダー通してんのよ」 「いや、ジュクリョの数え方だナ、単に熟慮しただけならイチジュクリョ……」 「イチジュクリョって、なんかに似てるね、イチジクにも似てるけど、あッ、イケブクロか……」 「似てる!」と私は賛成した。  似ていたからって、どうってことではない。  大体からして、ふつうは熟慮を数えたりしない。  それから二人、同じ連想をした。 「えー、結婚生活には三つのフクロがございます」 というフレーズでこれは、もとは結婚式の司会の営業をしていた、落語家のヨネスケさんのネタなのだそうだ。  我々の宴会仲間のトモジくんが、「なんかアイサツしろ」と酒のサカナに要求されて、絶妙のタイミングでやったのが大受けして、以後、宴会の定番になってしまった。アイサツ口調がミソである。 「エー、宴《えん》、高輪《たかなわ》プリンスホテルではございますが、はなはだ千円札ながら、乾杯の温度計をはからせていただきます」  ほとんど小学生のダジャレだが、酔っぱらってる時の気分にとてもフィットする。 「いいぞトモジ!」 「あれをやれ! フクロ! フクロ!」 とリクエストが、必ず出る。めんどくさいのでトモジは断らない。 「えー、結婚生活には、三つのフクロがあるといわれております。一つは、あー、池袋。そして二つに沼袋、そうして、えー、三つが、東池袋……」 といってナゾのアイサツは、そこでブツッと終るのである。  なにしろ酔っぱらいなので、我々はたいそう喜んでいる。最初から意味はないと決まっているから、安心して、おおいにゲラゲラ笑うのである。  池袋、沼袋ときて、もうひとつそれらしいのをみつくろえずに、東池袋で間にあわせるってズサンな感じが「味」である。  しかし、オリジナルはなんだったんだろう? と、酔っぱらってない頭で考えてしまった。  結婚生活で必要な袋は、まァ、ひとつは給料袋だろう。いまどき給料は袋に入ってはこないけど、なんといってもこれがなくちゃあ生活するのがややこしい。  二つめは、おそらく「堪忍袋」にちがいない。おたがい元はといえば他人同士なのであるから、ガマンということが肝心であります。  少々のことは堪忍袋におさめて、しかし、時々はヒモをゆるめてやりすごすというのも、知恵というものでございますとかいうはずだ。  だが三つめの袋とはなんだろう? お袋は結婚生活に入ってきちゃうまくないし、ぞうり袋はコドモが小学校に上がってからだ。  そういや、いまでも小学生はぞうり袋を持つのかな、だいたいゾーリなんて履きゃしないのに、なぜ「うわばき」入れを「ぞうり袋」といったのだろう? それをいうなら、クツを入れておく箱を「ゲタ箱」というし、エンピツ入れは「筆箱」だ。  いやいや、箱ではない袋の話だ。ふとん袋は夜逃げか引越しの時の話だし、浮き袋は海水浴、寝袋はキャンプ場、慰問袋は戦時中である。  私はTVを見ているツマに尋ねた。 「あのさァ、三つの袋って、なんだったのかなァ」 「だから池袋、沼袋、東池袋……」 「いや、もとになったほう、あれもともとは、いかにもなスピーチのハズなんだ。いかにもな袋っていうと何だと思う?」 「えーと、まず胃袋でしょ……」 「あっ、胃袋か! あーそれがイケブクロのもとだな、胃袋だ胃袋!」 「じゃ、あとの二つは?」 「堪忍袋と月給袋」 「あ、そっかァ、いいそうだねー、いかにもだねー」 「なるほど胃袋かあ、そーか、いえるなァ」 「なーに、そんなに喜んじゃって」  胃袋は、おくさんの手料理が、ダンナさんをひきとめる、もっとも、ダイジなフクロであります、とかいうな。きっと。 「やーねー」 「やーねーって、何が?」 「何がって、そーんなに喜んじゃって……三つの袋なんかで、そんなにジュクリョにジュクリョを重ねちゃってさあ」 「都合、サンジュクリョかヨンジュクリョくらい重ねた」  ツマには不評だが、私はこの三つの袋が、案外気に入ってしまった。虚心坦懐熟慮しちゃったので、あたかも自分で思いついたような心持である。 [#挿絵(img/021.png、横121×縦194、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] カラス、頭いいか? 問題 「ねえ、カラスが頭いいって、ほんとの話?」と、突然ツマが言った。 ちょっとカラスに批判的な声音である。 「うん、まあ、そういわれてるけどね、世間じゃ、一応……」 「お向かいのマンションの屋上だけど、二本目なのよ」 と、ナゾのようなことを言う。こういう場合は、黙って聞いていればいいのである。 「私が目撃した二本目なんだけど、カラスって、マヨネーズが好きみたい。まだちょっと中味が残ってて、外側からそれが見える状態になってるマヨネーズってあるでしょ?」  そのマヨネーズを、カラスがなんとか食べたいと悪戦苦闘するサマを見ていたというのである。  カラスは、マヨネーズの味とか形態については、頭に入っている様子なのだった。 「ックショーッ、コレ、ンマインダヨナー、コレ、スキナンダヨナァ」 と、カラスがいいたそうにしていたそうだ。  何度も容器を投げつけたり、ピョンと全体重でのっかってみたり、しばらく眺めていたりするのである。 「アソコニ、見エテンノニナァ」という目付きであったそうだ。  クチバシで突っついてみたりも、もちろんする。 「でも、マヨネーズの容器って、けっこう強いのよ」  カラスはいろいろ、さまざまに努力した結果、どうも諦めたらしい。あの、隅の方にコロンと投げ捨てたと思ったら、バフバフって、あっちのビルに行っちゃった。 「ていうことは、あの赤いフタ、ついたまんまなんだ」 「そう、アタシの思うには、赤いフタついてない状態で、マヨネーズなめた経験があると思う」  だから、たとえば容器に乗っかって、中味を移動させる、っていうようなワザは、既に持っている様子だったというのである。  ところが、あの小さな赤いフタをとるってことが出来ない。 「クルッて回す、そのことに思いいたらない」のがジレったいらしいのだった。 「教えてやりゃあよかったじゃない、こうくわえてグリッグリッって顔回して……」  なんかスキマで固定しといてからキャップくわえて、ひねり加える。 「こう、こう」 「そりゃ、教えてやりたかったわよ、そこをクイッと、こう、咬んでクルッと」  全然、こっち見やしないんだもん。 「バッカじゃないの?!」って。 「まァ、しかし、あのネジっていうガイネンはね、相当高度なものらしいからな」 「だって、クッて、それだけなんだから、あれだけいろんな工夫したんだから、あの赤いとこに、なぜ? 着眼しないか?!」  だってさあ、カラスって、クルミ自動車に轢かして、中味食べたりするんでしょ。マヨネーズのフタひとつあけらんないで「頭いい」とか言われてんじゃねえよ、といいたいとのことだった。  それで、結局、あけかたわからずにお手上げなのかと思ってると、さっきまた新たにマヨネーズくわえて、もってきたというのだった。 「それが二本目だ」  そう、私がモクゲキした二本目。だから、ひょっとすると、もう、ものすごくたくさん、くわえてきちゃあフタあけられないマヨネーズが、そこらじゅうに点在してるかもしれない。 「オレはねぇ」 と私は言った。 「カラス頭いいってことに、人間はもうちょっと着目するといい、と思ってんだよ」  カラスにもいろいろいて、人間と同じように、一律に頭いいわけじゃない。マヨネーズのフタひとつ、あけられないカラスも、そりゃいるだろう。  しかし、カラスの中から器用で物覚えのいいのをえらんで、ゴミ袋の結び目をほどいたり結び直したり、チョイチョイっと、そこらを箒で掃いたりするような「天才」がでてきたら、どうか。  カラスは、今ほど目の敵にされることもないんじゃないか。せっかくキレイに整頓して、収集を待ってる状態のゴミ袋をつついて中味を散らかす、ゴミ箱におさまってるゴミをわざわざ引き出して、片づけないでそのまま行ってしまうから、人間はバカにされたような気持になってカラスを憎むようになる。  もーし、だよ、もーし、カラスがゴミ袋を、こうほどいて、必要なものだけ選んでですよ、その場で食べるなり、屋上の方へ持ってくなりしてですよ、あとはもと通り、ゴミ袋結んで、チョイチョイっと、体裁よく並べ直したりしとけばですよ。  ちょっと早目の出勤のおじさんかなんかに声かけられるよ、 「あー、毎朝カンシンだねえ、ゴクローさん」 「いえいえ」 「いえいえって?」 「いや、だから、カラスがさ、答えるわけですよ、中には積極的にアイサツするようなのも出てくると思う。オハヨウ、オハヨウ、オターケサン、オハヨウ、オハヨウ、オターケサン」 [#挿絵(img/022.png、横132×縦187、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 初めての断髪式  国技館に異様なメンバーが揃っていた。いとうせいこう、泉麻人、安西肇、えのきどいちろう、山田五郎、松尾貴司、ナンシー関、しりあがり寿、久本雅美、柴田理恵。  一人一人が異様というのじゃない。ここが国技館で、これから元・前頭筆頭の敷島関の断髪式が行われようとする、その会場だから異様なのだった。  そこだけ浮いている。 「いま、特攻旅客機が突っ込んできたら、日本のサブカルチャー壊滅だね」 とだれかがいった。 「これでタモリさんがいれば、タモリ倶楽部一〇本分、撮り溜め出来る」 という人もいた。  たしかに、タモリ倶楽部によく出てる顔がズラリだ。  スカパラもいる、スチャダラパーのアニ、ボーズもいる。朝倉世界一もいる。しかし、なんという名前だろう。有限会社さるやまハゲの助・しりあがり寿って、名前が世間をなめきってる。  私より、ひとまわり年代の若い、このへんの人達って、ふざけてていいなァ、こうしてダークスーツや礼服着て、こういう、ふざけた陽気な名前の人々があつまってるっていうのは、とってもたのしい。  みんな、敷島のトモダチなのだった。敷島がおすもうさんには珍しいシブイ趣味で、ワハハ本舗の芝居やスカパラやスチャダラパーのコンサートに足を運んでるうち、トモダチになったらしい。  私は、えのきどいちろうさんの、仲人ということで、おミソみたいに仲間に入れてもらってる。  おすもうさんのトモダチになれた時はすごくカンゲキした。なんといっても、おすもうさんというのはトクベツだ。  トモダチになったおかげで、敷島関には、曙や武蔵丸や琴錦や千代大海を、支度部屋で、すぐそばで見せてもらった。  だけでなく、並んで写真も撮ってもらった。カンゲキした。  以後、東京で場所があると、かならず四人で出かけて、叫んだ。 「シ、キ、シ、マあああ」  何回も大声で叫んで、場内がいぶかるくらいなのだ。敷島は、すごくいいヤツなのだが、みんなはそれをよく知らないのでいぶかるのだった。  いいヤツなだけじゃなく、敷島は横綱・貴乃花に二場所連続で勝つくらいに強かった。強いだけじゃなく、コメントがおもしろいので記者たちには「コメント横綱」と呼ばれていたのである。初めて貴乃花に勝った時、 「勝っっっチャッタア」 といった。コメントがおもしろいのは頭がよくてセンスがいいからだ。ワレワレは敷島のファンだった。  ワレワレは、冒頭にあげた、サブカル勢だ。こんなに偏向したファン層を持つおすもうさんも少ないだろう。  みんな敷島の断髪式にやってきた。むろん、敷島のファンだからだが、断髪式なんて、そうそうできるイベントじゃない、こない手はない。  なんてったって、ほんもののおすもうさんの断髪式なのである。 「あれ、ほんとに切っちゃっちゃダメらしいよ。形だけにしないと、何百人に切らすんだから」 「いや、俺が聞いたんでは、ちゃんと切ったってよ」 「どのへん?」 「マゲはダメなんだよな、あれは親方が切ることになってるから」 「順番どうすんのよ?」 「後援会のエライ人が済んでから、アイウエオ順」 「ってことは、朝倉世界一か」 「泉さん、いとうさん……アッ、えのきどさんも、もう用意しといたほうがいいんじゃないの」 「おじぎは何回かな」 「日本人の大人として、恥ずかしくない程度の常識をはたらかしてだな」 「俵はふむなよ」 「キンチョーするなァ」 「笛の試験みたいだなァ」 「お焼香にも似てる」 「常識が試されるね」 「どこ? どのへん切るの?」 とかいってるうちに、断髪式はトントンと推移していく。  アイウエオ順に名前が呼び出されるけれども、次々に読み上げられるので、土俵上にあって、一礼、二礼、金色のハサミを行司さんにわたされて、マゲの下、タボのあたりにハサミを入れて、土俵上のじゅうたんにそってハケてく人と、名前とが同調しない。  アイウエオ順だから、見当をつけて、土俵下にスタンバってればいいのでそんなにあわてることはないのだナとわかった頃に、どんどん自分の番が近づいてくる。  みんな、ちゃんと常識人として、とどこおりなくやれてるみたいだ。  ハサミを入れ終ると、正面を向いたなりの関取の肩にふれて一言二言、ふつうは何かいうものらしい。  私は結局、キンチョーしてたらしくて、ねぎらいの言葉をかけるのをわすれてしまった。そのかわり髪は一センチくらいの束をバッチリ切った。よ、よかったのかな? [#挿絵(img/023.png、横168×縦244、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 流星観測  流星を見ると、たいがいの人は「オーッ」と言うのである。 「オオオーッ」とか「オッ」とかも言う。流星には人をしてオーと言わせるなにかがあるんでしょうね。みんな言い合わしたように言います。  遠くで「オーッ」という声がするんですよ、周りは真っ暗、満天の星です。我々、私とツマと、大島の友人夫婦四人は、寝袋に入り、毛布にくるまって屋上に寝転んでいる。  我々は、しし座流星群を観測するんで、わざわざ大島までやってきた。観測といっても、ただ見るだけです。別に流星の突入方向を記録したり、出現時刻を書き入れたりしない。  ただ「オーッ」とか言うだけ。しかしたんびに言う。言うと決めたわけじゃないがつい言っちゃうから言う。  はじめは、この大島でいま流星をこんなふうにして見てるのは我々だけだと思ってたんですよ。  それくらいあたりは真っ暗だし、静かだった。ところがどうもそうじゃない。同じようにオーオー言ってる連中がいたんでした。  ただ、その連中のオーが、ぜんぜんとんでもない時におこるんで、はじめはなんのことやら、わからなかった。  きっとかなり我々と隔たったところにいたんですね。音波は一秒間に三四〇メートル、つまり三四〇メートル先でオーと叫べば、一秒後に聴こえる理屈です。  音の遅れの感じからいうと連中のいるのは六〇〇〜七〇〇メートルは先のようでした。  我々のいる屋上は、プチホテルっていうか、まァ民宿で、その宿を紹介してくれたT君夫婦もやってきたという寸法。  天体観測っていうのは、存外冷えるもので、これは過去二回の「しし座流星群観測」の経験で、我々の防寒対策は、いやが上にも重装備になってる。  自衛隊御用達の発熱ソックス、登山用ヘビーデューティーももひき、フリースの上下に、防寒パンツ、その上ダウンジャケットを着た格好でシュラフに入り、毛糸の帽子をかぶって、マスクをする。  宿の奥さん(この人もT君の友人)が、一緒に自分も見ようと思って屋上まで上がってきたけど、四人の異様な姿にギョッとして逃げるように階下に降りていってしまった。こっちはそんなにヘンと思っていなかったけど、モコモコなものが暗いなかにゴロゴロいる様子は、かなりキミワリイものだったらしい。  幸い空は終始快晴、流星も今年は当り年で、次々に派手な明るいのがビュンビュン飛んだ。T君夫婦は流星観測は初めてということで、当り年でよかったよかった。  初めてで、こんなに見られるなんて、二人はものすごく幸運だ、と言って何度もハゲましたのだった。実はT君のところへは、明日から税務署がやってきてエラく細かい調査をされるというのだ。  友人T君は、大島の酒造家、むぎ焼酎といも焼酎を作っている。酒税の関係は調査が細かくヤッカイらしい。正直にやっていても、税務署というのは気が重い。  しし座流星群は、この三年ばかりが同じ頃に見えたのだが、今回がいちばん派手に飛んだ。これが初体験だったら、我々もこんなもんかと思うだろうが、たいがいいつもはもっと地味なのである。  大成功のうちに観測会は終って、翌日は、大島の温泉でゆっくり、っていうスケジュール。  町営の温泉に開けハナに出かけてゆっくりつかった。窓から椿林や山が見えて、午後の日が長く差し込んでいる。ぬるいお湯なのでほんとにじっくりのんびりできる。  風呂上がりにビールを呑んでいると島の人に話しかけられる。  T君の友人だと言うと、 「あそこの焼酎は、近頃、島の外で評判になったとかで、昔から呑んでた一升瓶入りの安いのが手に入りにくくなった」 と友人である私に苦情を言う。T君一人で醸造してるのを知っているから「あすこは一人で大変なんですよ、作れる量は限られてるから……」とか、言い訳みたいに言っていたら、後で聞くと、私達は島に流れてきて、T君のところで働いてる夫婦者と思われていたらしい。  島には、観光以外で人が入れば、すぐそれとわかってしまう。島民同士は顔を見知っているので、ヨソ者がすぐわかる。  我々が島内を散歩していたのも、島民から見ると異様なことらしい。島の人は、今はどこへ行くのでも車に乗っていく。  徒歩で移動してる人は「ちょっと変わった人」なのだそうだ。T君は、『散歩の達人』という雑誌に連載を持っているような人だから、つまり島では大いに変人で通っているらしかった。  そこにさらに夫婦ものの変人が流れてきたわけだ。もし「大島あんこ椿いでゆ殺人事件」が起きたら、目撃者がたちどころに、すべての立ち回り先を証言できるかもしれない。  海をみながらタバコを喫っていると、異常にゆっくりと車が通っていった。我々を監視してるのかと思ったら、それは車に乗ったまま犬を散歩させているのだった。 [#挿絵(img/024.png、横128×縦210、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ヒミツのお誕生会 「みなさん、ちょっとご静粛にねがいます……」と、ワタナベさんが厳粛に言った。が、ワタナベさんの鼻には、ピエロのつける赤いタマ(スポンジ製)がついている。  ワタナベさんだけではない。そこにいる八〇人ばかりの人々は、どこかしらに必ず、赤いものをつけている。  大きな赤い蝶ネクタイをした人、ドレスアップして、手袋だけは台所用の真っ赤なゴム手袋をしている人、赤いメガネ、赤いポケットチーフ、赤いジャケット、赤いスカーフ、赤いストッキング、赤い帯、赤い靴。  私は頭に赤い小さなリボンをつけた。小学校の頃、上履きに赤い印をつけたあの要領である。  一週間くらい前にFAXで指令がきた。嵐山光三郎さんが還暦を迎えることになった。ついてはパーティーを開くけれども、本人には内緒で、当日ビックリさせようと思う。  本人は赤いチャンチャンコなんて嫌がるだろうから、魔除けの赤は、ワレワレが担当してさしあげよう。ということで、どんなものでもいい、服装のどこかに赤いものをつけて出席していただきたい。  当日は七時に、予約したレストランに当人を連れ出す手筈になっているので、時間を厳守していただきたい。遅れる場合は、時間をズラして七時半においで下さい。くれぐれも当人と路上で鉢合せになるような、ドジを踏まないように。  また、この計画が事前に洩れることのないよう、日頃の会話などにも十分にご注意をおねがいします。  というような、ていねいだが非常にプレッシャーのかかるような指令書なのだった。そのかいあって、出席者は定刻三〇分前に、ほとんど集まって、みんないいつけ通り各々赤いものもつけて来ている。 「いま、定刻の一〇分前です。オフィスの方から、いま時間通りに連れ出す旨の連絡が入っています。これからの手順を申し上げておきます。ご承知のように、嵐山さんはみなさんがここにお集りであるのは、まったくご存知ない。秘書のチエちゃんと、坂崎さんが嵐山さんを連れ出します。  こちらには大島さんがいて、待っている、ことになってます。ところが店は真っ暗です。スイマセン、ちょっと電気消してみて下さい。  ハイ、このように暗くなってます。で、なんだ休みじゃないか?! と、思う。そこに中村誠一さんのサックスが、嵐山さんの大好きなメロディーで演奏されます。アレ? というんで店内に一歩踏み入った途端、電気が点く。エー、この時一斉に拍手をおねがいします。  ご当人が着席いたしますと、また電気が消える、バースデーケーキが運び込まれてきます。今度はピアノで、中村さんがバースデーソングの伴奏をして下さいますので、全員でご唱和いただきまして、歌い終りましたら、いまからお配りするクラッカーを一斉に鳴らしていただきます」 「よろしゅうございますね? では、そろそろ時間が迫ってまいりましたので、いまから電気を消します」 「なんか、ドキドキするね」 「嵐山さんおどろくかねえ」 「ぐっときて泣いちゃうかね」 「しィーっ!!」 「静かに、静かに」 「まだ来ない、もう来ても……」 「しィ、来るから! 静かに!」  まるでかくれんぼでもしてるようだ。待っているとなかなか来ない。  見張りから合図がある。みんな息を殺す。中村さんのテナーサックス、そして点灯、大拍手。  嵐山さんがビックリしている。 「あ、ああ、おう、あー」とモゴモゴ言ったかと思うと、ことさら荷物を置いたりコートをかけたり、している。やっぱり、ちょっとクルものがあったらしい。 「どーもすいません、あ、ドモ」  などアイサツをみんなにしながら、着席。バースデーソングも、クラッカーも、すべて手筈通りにうまくいった。  みんなうまくいって、ウレシソウ。嵐山さんもうれしそうだ。人徳だなァ、こんなことされて、ぐっとくるだろうなァ、と私は思った。  ひととおり、アイサツなどあって、私の番が来た。マジメなアイサツは私には求められていないので、こんな時は必ずモノマネだ。  三船敏郎の声色で、声を太くする。 「えー、三船敏郎です。ひと言、ゴアイサツをいたします。嵐山さんは本日、カンレキになられたそうだが、私に言わせれば、マーダマダ! 小僧っ子であります。昔から! 四〇、五〇はハナタレ小僧、六〇、七〇はヨダレ小僧、八〇、九〇はクソタレ小僧といわれております。えー、立派な、クソタレ小僧になるまで! きばっていただきたい! 以上!!」  そういえば、赤瀬川原平さんが、カンレキになったのは五年くらい前だった。あの時は古式にのっとって赤い帽子とチャンチャンコを赤瀬川さんに着せて、写真を撮ったあと、順番に着回して笑った。  まだまだ先だと思っていたけど、あと五年したら、私もカンレキなのだった。  月日のたつのは早いなァ。このままじゃ、冗談ぬきに、一生、小僧のままだなァ、と思うのだった。まァいいか、とも思うのだった。 [#挿絵(img/025.png、横132×縦209、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 日比谷公園のカエル 「やっぱりいたよ」とツマが言った。やっぱりいたのである。 「去年とおんなしトコにいたりしてね」と話していたトコだったのだ。  去年、われわれは同じ頃、同じように有楽町のレバンテでカキを食べて、梅の香を聞きに日比谷公園まで足を延ばしたのだった。  入口を入ってすぐ、ちょうど池を回り込むように左に折れると、道のまん中にそれはいた。いたというよりコンモリあった。  だから初めは、コンモリあったりするようなモノに見えたのである。が、近づいてよく見てみると、それはウンコではなくカエルだった。  まったく動かない。まったく動かないくせに道のまん中である。 「こんなところで、動かないでいたら、ダレかに踏みつぶされちゃうよ」 とツマはカエルに話しかけた。カエルは日本語を解さないのか、目をつむって、口はへの字に閉じたままだ。  ツマはそれを、ヤッとつかむと、カエルが向かおうとしていたらしい草むらのあたりまで連れていって、そこで放した。  そんなことが去年あったのだ。同じように、カキを食べて、腹ごなしと梅見をかねて、日比谷公園までやってきた。 「そういやさ、去年もこんなことがあったな」 「うん、で、カエルがいた」 「あー、カエル、ぜんぜん動かない置物みたいなカエルな、去年とおんなしトコにいたりしてな」 と話しながら、入口を入って、左へ曲がったのである。まるで、去年にタイムスリップしたように、そこに動かぬカエルがあったのだ。 「あ、どうも」とわたしはいった。 「どーも、どーも」とツマはいった。カエルにアイサツしたのである。  カエルはまるでカエルのツラにションベンかけたように、無反応なままである。 「どうなんですかァ」と、私はカエルの背中に手をまわした。っていうか指をそえた。 「どう」っていうのは、まァ今年の陽気の具合とか、体調とか、そういうことだ。そんなに深く考えなくてもスグ答えられる、そういう質問である。  カエルの表情をのぞき込むと、不機嫌そうにも見え、ゴキゲンそうにも見える。まったく無関心というのがいちばんピッタリなのだが。  カエルの背中は、とてもチベタイのだった。たとえていうなら、冷蔵庫から出してきたコンニャクを触っているようだった。といって私は冷蔵庫からコンニャクを出してきて触ってみたことはない。  カエルも、そんなに触ってみたことはないのだが、ツマが平気でつかんだり、つかまえたりするのに影響されて、カエルの背中に手をそえながら、どうかね? とねぎらうくらいのことはできるようになった。  ツマはカエルが好きらしい。カエルの置物とか、カエルのぬいぐるみとか、カエルの絵のついた便箋とかを買ってきたりする。 「しかし、まったく動かないね、意地でも動かないつもりらしい」 「冬眠からさめて、まだ半分眠ってるんじゃない」 「じゃ、なんだってこんなとこまで出張ってくるのかね」 「だから、まだちょっとネボケてんのよ」 と、ツマはあくまで、カエルの身になって答えるのだった。ハッとしてツマをよく見てみたが、別段変化はなかった。あんまりカエルに同化しているので、カエルになったかと思った。  カエルが無反応なので、私はカエルのあちこち、を触ってみた。頭とか、脇の下とか、うなじ(ってどこだかわからないが)とか、どこを触っても無反応なのだが、案に相違して脚にちょっと触れると、 「もうー、やめてくださいよお」 といった風情でカエルは動くのである。脚を触った時だけ、カエルは身じろぎをする。  ところが、その時、片足だけひきずったような形になると、その形ナリに動かなくなるのだ。  あたかも……えーと、あたかも、ダルマサンガコロンダをやってるような具合にだ。  そんなふうにして、いいオトナが二人、しゃがんでカエルを見ながら、長時間、ああでもないこうでもないと話している。 「いいねえ、のんびりして……」 「来年また、くるかもしれないね」  こんな時間を、けっこう憶えてたりするんだよな、など話しながら、梅見に行く。梅はまだ一分か二分といったところ、しかも、風流なホームレスが、ダンボールでヤシキをつくって占拠していた。  日比谷公園を一巡してみると、カエルが道に出てじっとしてるケースは、この晩三件であった。  うち一件は、なんと水銀灯の下でセックス中であったけれども、かといって、二名の者、じっと動かない。いったんやりすごして、つまりダルマサンガコロぶ要領で振り返って見たのだが、二名の者はじっと身じろぎもしないでその体勢なのだった。 「いい晩だったねえ」 とわたしはいった。ツマもそう思っているらしかった。月も出ていた。 [#挿絵(img/026.png、横129×縦210、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] うぐいす鳴いた 「パチン!」 と、いきなりTVのスイッチを切った者がいる。私は口がとんがってしまった。 「なんだよおー」と思ったのだ。朝一〇時頃だったろうか。  別に大して面白いところじゃなかった、そんなに一生懸命見ていたわけでもない。しかし、何の断わりもなしに、ひとが見てるTVをいきなり消すのは 「如何なものか?」  それで私は声を大にして言ったのである。 「イカガナモノカ!!」  ツマが(TVを勝手に消したのはこの者である。我が家には私と、この者しかいない)、それを制して、 「シィーッ」と言った。口に人差し指まで持ってきている。  こうされると人間というのは静かにしてしまうものだ。 「…………」  ちょっと黙ったけれども、気持は片づいていないから、また、抗議を始めようとした時である。 「……ケキョ」といった。 「聞こえた?」と声を出さずにツマが言ってる。そうしてさらに、 「ホーホ……ケキョ」と、たしかにクッキリそう鳴いた。 「え?」 「うぐいす?!」 と二人で言った。だよなァ、いまの声は、ホーホケキョだから……。  大塚を東京の真ん中、というのはおこがましい。けれども一応、山手線の内側である。  うぐいすが鳴くなんて、そんなノドカな、高尚な場所じゃない。大塚に住んで七年になるけれども、うぐいすの声を聞いたのは初めてだ。  我々は、ベランダ側にあけられたガラス戸から、耳だけ外へ出すような姿勢で、しばらくじっとした。  ベランダに出なかったのは、うぐいすの声があんまり近くに聞こえたので、ヘタにバタバタ動くと気配を察したうぐいすが逃げてしまうと思ったからだ。  けっきょく、うぐいすは、もう一声も鳴かないのだった。ベランダに出て、あちこちチェックしてみたがうぐいすはいなかった。  もう、どこかへ飛び去ってしまったようだった。 「そうか、うぐいすが鳴いたか」と私はしみじみ言った。  うぐいすが鳴くと、ここいらも、なんだか緑の深い山の中のようだよなァ。 「いいねえ、うぐいす、また鳴かないかな」 と私は言った。ツマもそう思っていたのだろう。最初は耳を疑って、それでTVの音も消してみたのだ。そうしたら、ホントにうぐいすが、ものすごくそばで鳴いていて、それから、パタリと黙ったと思うと、どことも知れず飛び去ってしまったのだった。  うぐいすの生態を知らないけれども、うぐいすは大塚に何用あって来ただろうか?  近所の緑といえば護国寺か小石川植物園だが、いかに緑のある所だって、うぐいすは、そうめったにいるもんじゃない。たとえば、新宿御苑や、神宮にうぐいすはいただろうか? そんな話聞いたことないぞ。 「でも大塚には娘義太夫もいるからなァ」 とツマが唐突に言った。知り合いのウチダさんのダンナは、わざわざ義太夫のおけいこつけてもらいに、大塚に来てるんだよ。お師匠さんはもう九十ちかいおばあちゃんだって。 「うん、それは聞いた」と私は言った。それとうぐいすとの関係は? と言外に聞いているわけだ。義太夫とうぐいす、がどうしたって?! 「だからさあ」 とツマが言った。うぐいすのお師匠さんてのが、大塚にいるワケよ。で、ハイ、ホーーオ、って、今日はホーオのところまでおけいこしましょ。ハイ、ホーーオって。 「おけいこに来てんのよ、どっかから」  で、本人はホーだけじゃなく、ホーホケキョまで鳴いてみたいからさ。それで帰りがけ、ホーオのおさらいのついでにホケキョもやってみた。で、意外にうまくいかなかったもんで、きまり悪くて、バァーッと飛ぶように逃げてったんじゃない? 「う〜ん、オレが思うにはねえ」 と私は言った。どうもアイツはうぐいすじゃないと見る。 「うぐいすじゃないというと?」 「うん、うぐいすのマネをするヤツだ」 「猫八とか?」 「いや、猫じゃなく、鳥」 「オウムとか?」  惜しい! 九官鳥とか? 惜しい! 何、何?  カラスだよ、カラスが今、知恵をめぐらしてるんだよ、自分たちがどうやら目の敵にされてるのに気がついたんだな。  まだ少数派なんだけどね。で、いろいろ試行錯誤してるところなの。 「カッコー」とかさ「ゴロスケホーホー」とかさ「テッペンカケタカ」とかさ、いろいろやってみて、どうも「ホーホケキョ」に都民が弱い、というのに気がついたね。  図星だよね、こうやってさっきから、オレたちずっと、うぐいすの話してんじゃない。あと二年もしたら東京中のカラス、「ホーホケキョ」って鳴いてると思うな。オレはそう見た。 [#挿絵(img/027.png、横128×縦228、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ヘンな団体名  最近、夜中の散歩をしばらくしてない。夜中の散歩はたいがい、どちらからともなく「どうですか今晩あたり、見回っといた方がいいんじゃないかな」といいだすのである。  我が家のいる辺り、いわゆる再開発の手が入るのが遅れて、いい感じの古い木造家屋が、まだ残っている。  昔の、つまりサザエさん一家の住んでたような「カワイイ家」が、時々見つかるのだ。丸いサクランボのような門灯を玄関につけた家や、配達の牛乳を入れる木箱が壁に打ちつけてあるような家。  ヤツデやアオキ、アジサイやナンテンの木があって、板塀からのぞいていたりする。トクサやヤマブキやオシロイ花があったりして、いまはひっそりお年寄が住んでいるような家。  そんな家を見つけると、 「ここは世界遺産に認定したから、以後無断で改築改変をすることは許されません」 と我々は宣言する。夜中だから小さい声でだが。 「伸ちゃん、ここは世界遺産でしょ」 「そうだな、これはイイ、これは認定だな、すばらしい」とか言う。 「あれ見て」  見ると、窓ガラスのヒビがいったのに、丸く切った障子紙で、ていねいにつくろってある。 「いいねえ」 「いいねえ」 と、小声で感嘆しあうわけだ。見つけ次第、世界遺産とするが、たいがい、この認定は破られてしまうのである。  そうしていつのまにか、ノッペリと面白くないプラスチックの積木で作ったみたいな新品の家に勝手に改築されていたりする。  世界遺産認定あそびは、そんなわけで、ここのところ少し下火になってしまっていた。折角認定をしても、認定するそばから、破られてしまうのでは、ハリアイがない。  最近は、これは夜中の散歩ではなく、昼間、気のついた時にやる「味な団体名」というか「怪しい会社名」というか、不思議な組織の探究というのがなされている。  これは主に、きちんと用事もあって公道を歩いている時にも不必要に中空を観察するという活動だ。中空っていうか、ビルでいうなら五、六階か四、五階あたり、に目をつけると、たいがい「私立探偵事務所」などを見つけたりする。  模造紙に、マジックで書いたのを外向きにセロテープで貼ってあるのだ。なるほど、あそこに私立探偵の事務所があるな、してみると、あの中で「私立探偵」がクライアントのくるのを待っているわけだな、とか想像するのである。 「東亜貿易」なんていう貿易商社を、戦前に建ったようなビルの中で見つけたりするのもいい。 「伝書鳩会館」を散歩の途中で見つけたのは、サカザキさんだが、ツマは「日中甘栗協会」を見つけてきた。ツマは甘栗が好きなので、この協会を郵便受けの名札で見つけてうれしかったらしい。ところがなんと一週間後、「日中甘栗協会の入ってたビルがあとかたもなくなっちゃったよ」との報告があった。  こっちの楽しみも、だんだん迫害をうけている模様だ。通勤途中のモルタル家屋が実は「アジアアフリカ研究所」だったり「中央人体研究所」だったり「ミレニアム委員会」だったりするのも、味がある。 「日本吹矢協会」を見つけた時は思わず好奇心でパンフレットをもらいにいったツマは、実際に「スポーツ吹矢」をしに、三、四回通うハメになったりした。 「ロックマン養成学院」を見つけたのは、オオモリさんだ。 「あのロックマン養成学院ってロックンローラー養成してんのかと思ったら、どうもそうじゃないですね」  そう、あれはカギをあける商売人の養成学校なんですよ。  こうしてみると怪しい団体愛好家は、案外潜在的に多いのかもしれない。  看板や名札を掲示するのは、別に制約のあることじゃないのだから、趣味で次々、怪しい団体名を発表する人があってもよさそうだが、案外いない。  たとえば、 「東洋キノコ研究所」とか 「全国串団子協議会」とか 「全日本乳首愛好会」とか 「国際カエルファンクラブ」とか 「日本ピラミッド協会」とか 「国際腹筋道場」とか 「日本つぶあん文化研究所」とか 「日本ガリ版保存会」とか 「全日本イトコンニャク協会」とかと、木造モルタルアパートの郵便受けに書いて回ったりする人が、いそうでいないのである。  もっとも、そんな人が、よしんばあったとしても、へんな団体名愛好家の「通」は、すぐその真贋を見分けるに違いない。ヘンな団体名愛好家の「通」は、ヘンな団体名のホンモノの、微妙な味に敏感なのである。  やはり、ちょっと考えて作ったような名前には、ほんとうの意味で、「ヘンな団体名」がかもしだす、そのフンイキや味を出すことはできない。 「ヘンな団体名」は、やっぱり実在するものに限るのだった。 [#挿絵(img/028.png、横137×縦160、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ナゾの物体X  事務所のガジュマルに水をやっていて、奇妙なモノに気がついた。 「こりゃ一体なんだ?」  トックリを逆さにしたようなものが枝にとつぜんなっている。それがあまりにも堂々と見事である。  土壁のような上品な黄土色で、濃淡のシマ模様がある。自然物のようでもあり、アフリカの民芸品のようでもある。  大きさは一〇〇ワットの電球くらい、電球にしては首の部分がとても細く形の印象は、ずんぐりさせた小ぶりな一輪挿しといったところ。  表面の質感から、即座に想像したのはハチの巣だが、形はぜんぜんハチの巣とは違う。そば屋の床の間かなんかで見たことのある、スズメバチの巣は、全体がややたわんだ球形だった。表面の模様も、どちらかといえばウロコ状だったような気がする。しかし、その色とカラリとした質感が、とても似ている。  ハチの巣に水をかけたりすれば、ハチはオドロいて、その後私を恨むにちがいない。私は大事をとって、水まきを中止した。 「あのさァ、いまベランダで水やってたらさァ」 と私はツマに電話した。  その日は日曜日なので、ツマは自宅でアイロンがけしてるとこだ。 「おそらく宇宙人の小さいヤツだと思うんだけどガジュマルの木に着陸してんだよ」 「ふーん」 「とにかく、今まで見たことのないような宇宙船なんだけど、とっても小さくてキレイだよ」 「ヘエー」といってツマは電話を切った。  翌日である。出勤すると我々はすぐベランダに出て、その物件を見た。 「う〜〜〜ん」 とツマはうなっているのである。 「な?!」と私はいった。ヘンだろ? 宇宙人の仕業としか思えない。 「うん」ものすごーく「上手」に作ってある。  宇宙船には見えないけどとツマはいった。 「ハチの巣かもしれないとも思ったんだけどさ、こんなトックリみたいな巣つくるハチっているかね」 「いるとしたらトックリバチだね」 とツマはいった。そんなものはいない、と思ってそういったのらしい。 「近頃はこういうわからないことがあったらインターネットでケンサクとかするんだろ」 と私はいった。せっかくパソコンあるんだからそれやってみろよと提案したわけだ。  ツマはその気になったらしい。しばらくコンピューター室に閉じ籠って、ケンサクとやらをしていた。 「伸ちゃん!!」  いたよォ、トックリバチってのが本当にといって出てきた。さっそくコンピューター室に入って、画面を見せてもらう。  トックリバチは、トックリ形の巣をつくるハチである。トックリ形の巣をつくるのでトックリバチである。ところが、その出てきた写真を見ると、ガジュマルの木になっていたのとは、まるで趣きが違う。  うちの、アフリカの工芸品と見紛うような見事なつくりと比して、トックリバチのトックリは、小学生の楽焼きのようで有り体にいってヘタクソだ。全然違うな、全然違う、と私はいった。 「そうだね、全然違う」とツマもいって、念のために「トックリバチの巣」でケンサクをしてみると、何件かあけていくうちに、「あっ!!」と二人で叫んでしまうくらいソックリのトックリが出てきたのだ。  どうやら、それもどこかの一般家庭の植木に、トツゼンなっていたらしい。「お父さんはトックリバチだというんですが」といって、コドモが昆虫館のHPに写真を送ってきたのだ。  昆虫館の係の人の回答。 「この巣はトックリバチの巣ではありません。コスズメバチという種類のハチの巣でそのままにしておくと大変危険です。いまのうちに、処置して下さい」 というような意味のことが書かれてある。ヤヤヤ、やっぱりスズメバチだ!! 巣のテッキョは素人の手に負えないゾ、区のサービス課に電話して保健所から係の人にきてもらうことにした。  サッシをピッタリ閉めて、我々はまるでコレラかエボラ出血熱を恐れる、どこかの先住民のようなのだった。 「保健所、どんなカッコでくるかな、カサンドラクロスみたいかな、ゴーストバスターズみたいかな」 「防護服は白いほうがいいんだよね」 とかと、いっているうちにチャイムがなって、ものすごく速攻で保健所は到着したのである。  ドアをあけると、三人もいる。ところが三人がそれぞれ、家庭用の殺虫スプレーをもっているだけで、全然、フツーのカッコなのだった。  しかも、巣を見ると「あー、こりゃトックリバチだ」と間違ったことをいいながら、スプレー缶を早くもカチャカチャいわせている。いや、アノ、それはコスズメバチの巣でとても危険でといい終わらないうちに係の人はスプレーをシューッと、巣の口に無造作にかけてしまった。  ワ、ワ、ワ、どうなるか!! と思ったら、どうにもならなかったのだ。係の人はアッサリ帰っていった。  問題の巣は、今、机の上にある。 [#挿絵(img/029.png、横136×縦199、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ドロボー夫婦 「えへへ、ドロボーしちゃった」 とツマは言った。ド、ドロボー? と声にはださないが、私がそうした気配を後姿に漂わせたのであろう、私が振りかえると同時に、ツマは三分の理を主張しはじめたのである。 「だってねえ、コイツ、誰からも見えないし、誰からも匂い嗅げないようなところに咲いてたんだよ、あそこの高速道路の脇んとこで……」  手には、クチナシの花が一輪、やや枯れかかった葉を四、五枚つけたヤツを持っている。 「それならしょうがない、なァ」 と私は即座にドロボーに加担した。そうしてコップに水を入れてくるとそこに挿したクチナシの、花の香りを嗅いだのである。 「あー、いい匂い」 とドロボー達は、連呼した。いい匂いを嗅ぐと、つい言ってしまう。 「あーイイ匂イ、あーイイ匂イ」  二日経つと、クチナシはしおれて、花びらも葉っぱも黄色くなってしまう。翌日、 「アレ?」 とツマが言ったので、私は白状した。実は私もドロボーしてしまったのである。たしかにそこは、誰も、そばに行って、花を見たり、匂いを嗅いだりはできない所だった。  高速道路の出口で、いつもはそこにクチナシが植わっているのさえわからなかった。たまたま、車が来ずにいたのをみすまして、さっと行って、さっと一枝ドロボーしてきた。  おとといのクチナシと、そっくりなヤツだった。けれども、葉っぱも花びらも、生き返ったようになっているから、たいがい気がつく。 「勝手な理屈かもしれないが……」 と私が弁明をしようとすると、ツマはコップをひきよせて言った。 「あー、イイ匂イ、あーイイ匂イ」  クチナシはいい匂いなのであった。その側を通るだけでも、イイ匂いではあるけれども、やっぱり至近距離にいって、思いっきりハナを近づけイキオイよく吸い込んだほうが、もっといい匂いである。  そうしておいて、瞑目するとさらに効果的なので、たいがいそうするけれども、そうする際はあたりを確認してからにしている。  そのようにしているところを、客観的に想起してみると、ちょっと「どうかと思う」からである。なんといっても、私は、ボーズ頭のお腹の出たオジサンである。  さすがに、夫婦で都合「二犯」してしまうと、もう後は花の命の終わるのを待つばかりだったのだが、おどろいたことに、今日がそろそろ臨終だろうという日に。  ドッサリ。実際にそれを置いたらドサッと音のするくらいに、大量のクチナシの花束を、持ってきた人がいたのである。  昭和のくらし博物館の館長でもある小泉和子先生が見えたのだった。昭和のくらし博物館は、大田区南久が原にある、民家をそのまま展示物にしたユニークな博物館である。  ここで、母の作る奇妙なヌイグルミの展覧会をすることになって、その打ち合わせに見えたのだった。  先生のおみやげは、いつもこんな具合の「昭和のくらし」っぽい感じで、すごくイイ。以前、秋に博物館を訪れた時には、帰りがけに、あチョット待っててネといわれて、庭の柿の木の枝ごとバキバキッともいで、キレイに熟れた柿の実を、沢山下さった。 「しかし先生、こんなに沢山……」 と、私はそのクチナシのドッサリ花束を持って聞いたのである。 「どうしてこんなに……」  もちろん、先生もドロボーしたと思ったわけではない。 「あー、うちの庭に生えてるのヨ、もう、タークサン生えちゃってて、いっくらでも生えてくるから。クチナシってのはね、もう、ズンズン、ズンズンふえるのよ」 「へえー、そんなに強いもんですかァ、葉っぱなんか、よく虫にやられてるの多いですけどね」 「そう、虫もすごいわネ、でも、ぜーんぜん、へいき。強いわよォ、こう、チョンと切って、土に挿しといたら、すぐつくもの、次から次にタークサン生えてくるわョ」 「えええッ? このくらいの枝でもですか?」 と私は、そのいただいたクチナシをかざして聞いた。ええ、もう、どんどんふえるわよ、ちょっとやわらかくした土に、ピュッと挿しとけばすぐつくから。 「そんなにカンタン?」 「えーえ、カンタンよォ」 と、先生は大いにうけあうのだった。 「伸ちゃん、挿し木しないの?」 と、ツマがズバリと聞いた。二日間ばかり、私もそれを考えていたのだった。これだけ沢山のクチナシの枝があるのだ。これをやわらかくした土に一本一本挿して……と考えていたところなのだった。  さっそくわれわれは、クチナシの挿し木をした。水をたっぷりかけて眺めていると、 「そんなにスグには根はつかないよ、抜いてたしかめたらダメだよ」 と、ツマがまたズバリと言いあてた。  あれからもう、一週間は経っている。どうも見たところ、ダメそうなのだが、まだ抜いてたしかめてはいない。生えてきたら楽しみなんだけど。 [#挿絵(img/030.png、横108×縦226、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 腹筋騒動  スバラシイ! ではないか?! と私は思ったのである。夢のような機械である! とも思ったのである。  それは、見たところは腹巻きのようであるけれども、スイッチがついており、それを押すと微弱な電流が流れて筋肉に直接はたらきかけ、脳を介さずに筋肉を収縮させる装置である。  これを装着すると、自分は何もせずに、というより「散歩」や「家事」「読書」や「TV観賞」などをしていながら、一〇分間に六〇〇回だかの腹筋運動をしたと同じことになる。  私は「ラク」が好きなのである。だからかもしれないが、もうここ二、三十年来、腹が出て胴回りが日増しに増えていたのであった。  腹筋がおとろえると、内臓や脂肪が体内から押し出てくるのを、おさえられなくなる。したがって腹がセリ出して、のけぞるような姿勢になるために、さらに腹は出るし、腰痛の原因ともなるというのだった。  私はラクが好きな上に、イタイのが嫌いである。背に腹はかえられないというコトバがあるけれども、腹を放置して腰がイタくなると、そうそうラクばかりはしていられない。  腹筋を鍛えないでいれば、代謝量が減って、さらに肥満するだけでなく、セキを切ったように腹が更にセリ出すことになる。  いよいよ、腹筋運動が避けられない事態となっていたのであった。  しかし、腹筋運動というものは、経験した人には分かると思うが、たいへん骨の折れるもので(もちろん本当に折れはしない)、やれば汗はかく、息は切れる、だからラクではない。どうにかならないものだろうか?  そんな時に、そのアブトロナントカという機械の宣伝をTVで見たのである。スイッチつきの腹巻きだ。「これならカサばらないので、つけたまま散歩もOK!」とかいっている。ニコニコしていて、しかも、もうそこまですることないだろ、といってあげたいくらいに、腹筋がダウンジャケットのキルティングみたいになっている。  で、まァ、私は早速これをツーハンで購入したのだった。現物が届いてみるとそれは、アッケないほどチャチなものだった。  ビニール製の、主要部分は文庫本サイズくらいの台形で、そこにスイッチがいくつかついている。微弱電流は乾電池から出るものらしく、その電池は小さなコインを五〜六枚重ねたようなカサのはらないものだ。  そして、あとは黒い平ゴムが、あるきりだった。腹巻きと見えたのはこれらを、マジックテープでジョイントした時の形状なのだった。  はじめて知ったことだが、説明書によると、これを使用する時には、電気を通じやすくするために、専用の透明なヌラヌラしたものを、装置の本体か腹に必ずタップリ塗らないといけない。  心電図をとる時に、なにかヌラヌラしたものを塗られるが、あんなものだ。これを塗らないと、電気がピリピリして気持よくない。「必ず塗れ」といわれなくても塗らないわけにはいかない。  が、当時は、まだ肌寒い頃のこととて、このジェルをたんねんに塗ったあと、ペトリとその装置を腹につけるとピャッとして、ウヘッという感じなのだった。  そうして、ともかくスイッチを入れれば、たしかに腹筋が、意志とは無関係に勝手にピクピク動くが、それを規定の倍ちかくやっても、別段腹筋はつかれもしないし、カタくもならないのだった。  たしかに、一日や二日やった位で突然腹がひっこむはずもないが、そうはいっても、少しは効果が表れてほしいものだ。  本式の腹筋運動を六〇〇回すれば、とりあえず腹筋が痛くなったりして、効果というか変化がある。この機械にはそれがまるでないのだ。  だが、その一方、イイ加減にやっては大変なことになる、と用心もしていたのである。腹筋は正面だけでなく、脇腹の方も鍛えたいので、同じように均等にやっておかないとマズイ。  もし右脇腹だけやって、左をしないでおくと、効果があらわれた時に右腹だけがスマートになってしまう恐れがある。  たった一〇分! で腹筋が……というけれども、正面と左右を均等にピクピクいわせてると、結局三〇分、ヌラヌラの腹巻きをして、ピクピクピクピクしていないといけないのだった。  結局、わたしはこの腹巻きと、じきに疎遠になってしまった。で、つい最近のことである。ツマがいった。 「シンちゃん、大変なことになってますよ!!」  え? 何が? え? 何がじゃない! 腹筋ベルト、今買うと同じものがもう一つ、いや、もう二つついてくるっていってるよ!!  一コ買うと三コ送ってくることになってるんですよ!!  なるほど、いっぺんに三コ、いろんなところにつけて、ピクピクいわせて、ニコニコしている人がTVにうつってるのだった。 「うーん」 と私はうなった。あの頃の私に、三コいっぺんに送ってくれてたら、どんなにかうれしかったろう。  しかし、私と腹筋ベルトの仲は、もはやすっかりさめきっているのだった。 [#挿絵(img/031.png、横148×縦236、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] お静かに願いたい 「うるさいなソコ」 とオジさんは言った。たまりかねたという声音である。  実は私たちもたまりかねていた。  私たちは、私とツマ。温泉旅行へ行く新幹線の車内である。五つくらい前の座席にいる若いOL風四人組の、オシャベリの声が車両じゅうに響きわたっている。  女の子たちも、おそらく旅行なので、ウキウキして、オシャベリの声のキーが上がっているのだ。旅行気分がさせているのに違いない。  しかし、そこに居合わせた乗客はみんな、ちょっと俯くようにして思っていた。 「るさいなあー」  オジさんの声は思いのほか通ってしまった。みんなもちょっと、たじろぐような通りかた。みんなが遠慮して空けてた道を、ストレートに通り抜けたような具合だった。  さすがにオシャベリはピタリと止んだ。鮮やかに一本きまった感じ。  ちょっとした空白の時間があって、ツマが囁いた。 「あの言い方は失敗……」 「え? 何で?」 「だってあれは最後のセリフだよ、あのコたち今、なーに変なオヤジ! って一斉に思ったよ」  ちょうど先生が、授業中に黒板に向かったまま「注意」したみたいな言い方だったというのだ。あの言い方だと若いコは、「反発するはずだ」と見た、らしい。  あれでは次にもう一度、うるさくなったとき、同じセリフはもう使えない。 「そうかなあー」と私は異存がある。以前にツマと二人でイタめし屋にいた時だ。隣のテーブルの八人グループが、全員、異様に大声! まるで暴風雨の甲板上で「談笑」してるみたいなのだ。全身全霊をこめて喋って笑う。ものすごくうるさい。  私はそれを「スゴイ顔してニラみつけてた」らしい。ツマが言った。 「ダメ! そんなにニラんじゃ」  事が荒立つというのだ。しかし、それは無法者を助長する考えではないか? と、私は思ったものだ。  が、果たしてツマの予想は的中したのだった。ほんの四、五分もした頃だろうか、四人組のオシャベリは、先刻と同じボリュームに戻っていた。  どうやら、自分達と対立してるのは、あのヘンなオヤジだけだ、と判断したらしい。あきらかに反抗的である。  オジさんは咳ばらいをした。果たして完全に無視された。  と、オジさんは、やおら立ち上がると、ツカツカと四人組の席の方へ歩いて行った。  またピタリ……とオシャベリは止んだ。オジさんはどうしたのだろう? と、しばらくすると、また四人組がペチャクチャ喋り出した。  どうやら、オジさんは、再度注意するべく立ち上がって、近づいて行ったところ、ピタリと止んでしまったのでそのまま通過して結果的にトイレに行ってきたらしい。  あるいは単にトイレに行くつもりで通りすぎただけですよ、という形をとったのかもしれない。  しかし座席に戻ってくると、オシャベリは完全に旧に復してしまっていた。私はオジさんに同情した。オジさんの頭の中は今や、いまいましいOLの事でイッパイになっているはずだ。  お弁当を食べるのも、新聞を読むのも心ここにあらず、その「いまいま、いまいま」しい気分の波動がはっきり伝わってくる。  おっと、オジさん、また立った! 再度トイレ作戦か? 通過すると、オシャベリはフェイドアウトする。  本当なら、ここで私は立ち上がるべきだったかもしれない。でもって、あの座席まで行って、 「うるさいと思ってんのは、あのオジさんだけじゃないんですよ、このオジさんだってうるさいと思っている!!」 とハッキリ言ってあげるべきだった。 「どうかなあ、それは」 とツマは不賛成らしい、ヘンなオヤジが二人に増えただけだというのである。  けしからん話ではないか?!  私は、こういう、公共の場所で常識はずれの馬鹿声を出したり、馬鹿笑いをしたりする馬鹿が大嫌いである。  そんな馬鹿がいると、だから私はニラみつける。しかし、そんなことでは馬鹿には通じないのだ。馬鹿には馬鹿に分かるように、ハッキリクッキリ言ってやるしかない。  そういえばそういう実例が、ついこの間あったのだ。東京に帰ってくる新幹線の車内である。  馬鹿笑いと馬鹿声のオヤジ四人組、何がおかしいのか、何か言っちゃあ、ドッと笑う。馬鹿声で休みなく話し込んでいる。  乗客のうちから一人、二〇代の青年が立ち上がってツカツカとその席に近づいた。 「あの、すいません、眠って帰りたい人もいるんで、ちょっとお静かにしていただけませんか」  とても静かな口調だった。  われわれは即座に静かになった。たしかに、うるさかったんだろう、と思ったからだった。なるほど、気がついてみると、騒いでいたのはわれわれだけだった。  われわれが黙ると、車内はしんと静かになってしまったのである。  楽しく会話している時、われわれはどうも馬鹿声を出しているみたいだ。それで、アハハ、アハハと馬鹿笑いする馬鹿野郎になっているらしい。 [#挿絵(img/032.png、横140×縦222、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 子バカ状態  世界的な天才アマチュアアーチスト・タカコ……。その人の名を知る人は少ない。まだ、ほんの一握りの人々に知られるのみである。  ざっと数えてみると、私と、私のツマ、私の姉とその家族、現在展覧会を開いてくれている「昭和のくらし博物館」の館長さんや学芸員の方々、そして博物館のご近所の人といったところで、せいぜい十数人。  しかし、人々は口を揃えて言う。 「タカコは天才だ」  言われると私はマンザラでもない。タカコが私の娘なら、私は完全に、いわゆる「親バカ状態」だと思うけれども、実は私がタカコの息子である。  母・タカコは現在八八歳(無職)。以前は貯蓄保険のセールスをするなどして、私を女手一つで育ててくれたのだったが、息子もやっとのことに独り立ちでき、仕送りもしてくれるようになった頃から、無職の道に入り、その頃から芸術作品を作り出すようになったらしい。  はじめはそれを、誰も芸術だとは気がつかなかった。もちろん私も気がついていなかったし、本人さえも気はついていなかったのである。  それは一見すると、ソマツな状差しのようだったからだ。薄皮まんじゅうの入っていたボール紙の箱を、セロテープで貼り、上部をカッターで切りおとして、状差し状にする。そこに、気に入ったチラシの写真や週刊誌のカラーページからきりぬいた写真や絵を、ノリで貼りつける。  柱の釘にひっかけて、そこにハガキや封書をつっこんでおくから、ますます状差しだと思うけれども、それが「芸術」だったと、後に知れるのは、既に実用に供されたところの状差しがあるにもかかわらず、毎日一点くらいのペースで、次々に同様のモノが作られたからだった。  そして、それは当然のことだが、最初の状差しのように柱に下げられることは決してないのだ。 「なんで状差しばっかり、こんなに大量に作るんだ?」 と、私はタカコに言ったと思う。 「さあて」 と、タカコは言ったのである。本人にも解っていなかったのだが、その正解は「芸術だから」なのだった。  私は、その使われることのない状差し(当時はそう思っていた)を、片っぱしから捨ててしまった。そのまま放置しておけば、我が家が「状差し」になってしまいそうな、イキオイであったからだ。  やがて姉に子供が生まれると、タカコは孫のために、人形を作り出すようになる。これも次々に精力的に制作されたのだった。  しかし、それを手渡された孫は、一瞬うれしそうな顔を見せるものの、人形の顔が「こわい……」と言うと放りなげて逃げていった。  タカコは、一向それにはめげず、さらに制作は精力的になっていく。その頃から人形に限らず、さまざまなモノがヌイグルミにされるようになる。  サンマやソラマメ、地球儀やガイコツ、カブトムシや宇宙人、恐竜があるかと思えばアリも作る。魚のホネもあるし、ハトや金太郎と、非常に多岐にわたっている。  創作の動機は、かのミケランジェロが、石の中に彫刻像を予め見たというように、捨てさられるはずの、ボロキレや、肩パッド、ファスナーのキレハシや、ホックなどに「何か」を見つける。早い話「何かに似てる」と思うのが創作のキッカケらしい。  ピカソの作品に、自転車のサドルとハンドルを組み合せた牛の頭の彫刻があったけれども、ミケランジェロよりこっちの方がタトエとしては近いかもしれない。  ともかく、そういう「アイデア」を思いついてしまうと矢も盾もたまらずに、とにかくすぐに完成させてしまいたい、と思うらしい。  だから仕上がりは無視される。まァ、たしかに、完成したものをどこかに「納入」するわけではないのだ。  ただ単に、タイを作るのにピッタリのピンクの布地があり、タイの口元にそっくりな、白いプラスチックのチャックがある。  それなら早くそれを組み合わせて、作り上げてしまいたいわけだから、縫い目が粗かろうが雑だろうが、そんなことはおかまいナシなのだった。  ここが「芸術家」的である。と、同じように、はじめた仕事はその日のうちに終らしてしまいたい方の、しかし仕上がりは無視できない「職人」タイプの私は思っていて、その「純粋」芸術ぶりに脱帽しているのである。  天才・タカコのうわさは、私のツマから、またたく間に「昭和のくらし博物館」館長の小泉和子さんの耳に入り(ツマが小泉さんに話した)、館長はすぐにその「作品」を見たいと言い出し、そのごく一部を見せるに及んで、即座に展覧会の計画は本決まりとなったのだった。  タカコは現在、タコをモチーフとしていて、タコの編みぐるみが異様に多い。どうせだから、さらに二、三点タコを作ってくれと発注すると、なんと一挙に三〇匹のタコを送りつけてきた。驚異的な創作力といっていい。 (展覧会は無事に終って、思ってもみなかった大勢の人に見ていただいた。新聞や雑誌、芸術誌やNHKの美術番組までとりあげて下さって、思わぬ新人アーチストフィーバーだった。母はいま九〇歳になって、近頃は、芸術家らしく、パッタリ制作をやめてしまった。アキたらしい。  最近は前衛詩みたいな、前衛書道みたいな難解な字句をスケッチブックに時々書きつけている。) [#挿絵(img/033.png、横100×縦233、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] サイナンに強いタイプ  ツマが大ケガをした。  ころんですりむいたのである。ころんですりむいたくらいで大ゲサな、と思うかもしれないが大ゲサではなく大ケガである。  すりむいた皮が厚かった。ちょうどカシワモチの皮くらいの厚さに、ちょうどカシワモチの皮みたいな形にすりむいてしまったのだった。  すりむいた場所も、すごい。弁慶の泣きどころ、あの弁慶も打ったら痛くて泣くところだ。そこをぶ厚くスリムイタ。  救急車にひどく遠慮するタチのツマが、今回は素直に救急車を呼ぶのに同意した。いや、たしか自分から救急車を呼んでくれと言ったのだった。その時は私も、タダすりむいたくらいにしか思っていなかった。  ものすごくすりむいていたのに気がついたのは、救急車の中でだった。ストッキングをハサミで切り裂いて、傷口を見た救命士が、 「うへえ」と言った。ちょうどカシワモチのアンコをたしかめるみたいにめくれた皮の下に、黄色い脂肪層が見えていた。  私は救命士と二人で協力して、素早くフタをして、ガーゼでそこを隠すようにとめた。うへえ痛そーう。と、二人で顔を見合わせてしまった。  何度か救急車に乗った経験でいうと、救急車は乗り心地がよくない。スピードを出しすぎだし、サイレンを鳴らしてうるさい。急カーブや急ブレーキの連続で落ち着いて乗ってられやしない。  そういうところにもってきて、住所、氏名、年齢などを矢つぎばやに質問するのでコマル。自慢じゃないが、私は自宅の住所をウロ覚えだ。  モタモタしてると、ツマが全部スラスラ答えるのだった。あんなに痛そうなのに、よくもまァ、住所なんかスラスラ答えるものだ、と私は思った。 「えーと、年齢は?」 と聞かれた時は苦笑いまでするのである。そういえば、先刻、救急車を呼んで下さった人(その人は鎌倉のお坊さんだった)が、一一九番から、同じ質問をされたらしいシーンでも、ツマは笑っていた。 「石段で転倒されまして、ハイ。だいぶ出血してます。え? えーとそうですねえ、しじゅう……」 といってから、しばらくツマの顔を見ている。年格好を判断しているらしい。とりあえず四〇代と見た。 「四五です」 とツマは白状した。ちょっと苦笑いしている。いかがなものかと私は思った。いきなり四〇から始めることはない。そんなに結論を急がなくていい。  二〇代から始めろとはいわない、救急車を呼ぼうって時なんだから。しかし、三〇くらいから始めてもバチは当らないだろう。  ところで、なんで急に鎌倉のお坊さんが登場するのか、不審に思うかもしれないが、不審なことはないのである。ツマがころんですりむいた石段は、鎌倉のお寺の石段だったからだ。  病院は大船の病院だった。着くと即座にレントゲンを撮った。スグに上がってきたレントゲンのフィルムを見ながら、骨はなんともありませんね。リッパな骨だ。ジョーブな骨だとホメられたらしい。  ところがキズは、大きい上に一番治りにくい場所を、治りにくい方向につくってしまったようだった。ケガの程度を「なんハリ縫った」と形容するけれども、縫い合わせたハリ数だけでいうと、二〇や三〇にはなるだろう。  私は廊下のベンチで待たされていたのだが、救急病院というのは、おそろしいもので、急を要する患者が、つぎつぎひっきりなしに来るのである。  交通事故で、腕をどうにかしたのだろう、もう片方の腕で支えながら、痛みに耐える中学生くらいの男の子がいる。かと思えば、指をマンガみたいに包帯グルグル巻きにしたおばさんが、捧げ持つようにそれを持ちながら、受付で年齢を尋ねられている。  さらにサイレンが鳴って、今度はオバアさんがタンカで運ばれて来る。  待たされてる方の時間感覚でいうととっくにチャンチャンコくらいは縫い上がってるんじゃないかと思うくらいに待ったのだったが、 「どんな具合でしょうか?」と、遠回しに催促してみると、いま縫ってますからね、と、さとすようにいわれてしまった。  ツマの方は、それはたしかに麻酔はされていたわけだが、足をそうして縫いつくろってもらっている間にも、お医者さんの実家が我が家のご近所だったことやら、自分の次に救急車で運びこまれたオバアちゃんも、実は階段から落ちて、レントゲンで見ると、骨はポッキリ折れてたが、あんなにスカスカじゃ無理もないとか、まァ、さまざまなことを見聞きしてしかもよく覚えているのだ。そしてその間にもキズ跡が残らないよう、縫い目をコマカクおねがいとかってリクエストもしていたらしい。  しかも、施術が済むと、約束していた訪問先に、どうしても行きたいといって出かけるしという具合で、私はすっかりツマの動じないのに感心した。  ころんでから、四週間近くなるが、やっと一部の抜糸ができたくらい。なるほど治りにくいキズである。  しかし、毎日キズの消毒に通うツマから、病院の様子を聞くのがおもしろい。いま通う病院では、ツマは、 「鎌倉のお寺でころんだ人」 と呼ばれているらしい。曜日によって医師が替わる。カルテを見て、 「エート、ああ、カマクラノオテラデコロンダヒト……」と毎回いわれるそうだ。  ツマの「災難に動じない」強さが私はちょっと誇らしい。 [#挿絵(img/034.png、横128×縦236、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 楽しい人間ドック  健康診断をやった。路上観察学会はこの人間ドックに一括して行く習慣である。こうすると、人間ドックもけっこう楽しい。  去年までは、お医者様も友達だった。その先生から手紙で結果が知らされて注意事項など読むのも、楽しみであったのだ(その手紙の字が、判読がムズかしく、真剣にならないと読めない)。  だが、その先生が亡くなられてしまった。それでこんどは、大きな病院に一括して申し込んで、大の大人が五人そろって、人間ドックに行くことになったのだった。  なんだかツンツルテンの、ジンベイの上だけみたいなお仕着せを着て、みんな、ちょっとタリナイ子みたいなのも楽しい。  身長、体重を測ったら、二センチふえてたとか、あ、オレはへってた、とかベンチに座って話せる。ほかの人はたいがい個人で来てるから、電車に乗ってる時のようにムスッとしているのである。それで、少し小声で話すのだが、そのようにするとなぜだか話をするだけでもスゴク面白い。 「腹囲を測りますっていうからさ」と私はいった。小声。 「なんか、まちがって、勝とうと思っちゃって、おもいっきり出したらさ、そんなに出さなくていいって」 「肺活量測るのに、思いっきり、フンッて最後までふりしぼって下さいっていうじゃない。オレの前の人、フンッて声に出していうんだよ、声は出さなくていいです、あ、ハイハイって、いってるのに声が出ちゃう」  そんなことをいっちゃあ、笑っている。まるで小学生だ。 「オレ、胃部レントゲンの女の人にキラわれたと思うな、ものすごくジャケンなんだ。アバラ骨折れるかと思ったよ、ギューッてさ」 「あ、そおお? すごく親切だったけどなァ、オレには」 「自慢かよ」 「あのさァ、眼底検査、右目と左目全然違う部屋でやってたろ、右派と左派で内紛あるとみたねオレは」 「んなこたないだろ」 「いいやある。あれは内部的に、根深い対立があるな」 「骨密度測るって、ありゃ何だい? あんなことで何がわかるのかね」 「うん、あの係のコはつまんなそうだったな」 「たいしたことないことやらされてるってカンジだった」 「あれはたいしたことないだろ」 「ところでさァ」と、あらたまったりするのもいい。 「検便、どうやった?」  最近の検便というのは、こういうシステムになっている。昔はマッチ箱やメンタムの缶みたいな小さな器に、ちょいと入れてってかたちだったが、今は、便器に水をはじく紙を浮かせておいて、そこに排便し、その大便のあちこちを、浮いてるうちに縦横に楊枝様の棒でこすった上、溶液の入ったプラスチック容器に、フタする要領で溶かし込む、という手順なのだ。  大便を受けるための、水に浮き、使用後は水洗で流せる特殊紙だが、これ、紙だからすこぶる不安定だ。 「あの紙がさあ、浮かせとくと」 「そうそう、沈むんだ」 「おちおちやってらんないだろ」 「そう、あせるよな」 と、ものすごく盛り上がるのだった。検便のために、大の男が大をしながらアセッたり、ビビッたりしてるのだ。アアーッ、沈んじゃう! ど、ど、ど、どうするーッとか騒いでいたのだ。  一人だったら、だまっとくところだが、みんなどうせやってるのだから、すべてありのままに、カミングアウトする。 「オレはねー、説明文のとおりに、まずトイレットペーパーを浮かして、浮力を増しといたところにやったんだけど……」 「ダメだよな、いずれ、こう、かたむいて、今にもテンプクしそうだろ」 「なんとかしたけどな」 「全部出るだけ出しちゃったら、エライことになるから、徐々にさァ、こう制御しながら……」 「せーぎょ」 「そう制御しながらチビチビやる」 「そう、チビチビがいいんだよ、チビチビが……」 とかいう。なるほど全員、あのプライベート空間で大変なことだったのだ。 「尿も、大変だったよなあ」 「そうそう、朝一番の、しかし、はじめに出てくるのはやりすごしといて、中間尿というものをとれっていう」 「いつの間にか終ってしまって、最後尿が混入しちゃうとエライことになる」 「そうそう、どこまでが最初尿か? の判断もムズカシイよ、どのくらいの量が最終的に出るか、予めは分かんないわけだからな」 「あの容器がまた、バカに小さいじゃないか、それで、まずは紙コップで採取しておいてから……ってあった、紙コップがさァ、あれはコップじゃないよ。フートーじゃねえの、あんなもん、いっきょに溢れちゃうだろ」 「そう、だからオレは、えのき茸の入った容器洗って、まず受けた」 「エエーッ?! おいそりゃマズイだろ。尿にキンが出てるってことになるゾ。前代未聞の尿ってことになるぞ」 「洗ったから大丈夫」  大丈夫じゃないだろ、ソレ。というような会話をいつまでもしてるのだった。 [#挿絵(img/035.png、横133×縦225、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] おかめひょっとこ  年賀状は大変だ。正月早々一日中トコロバンチを書き写していると、アルバイトでもしている気になる。 「年賀状というのも虚礼だな」 と思ったりする。いっせいにやめることにすればいいのだ、そうすれば正月がのんびりする。  ところが、元旦の唯一のたのしみもまた友達からくる年賀状だったりする。郵便受けを見にいくのが早すぎて、まだ来ていなかったりすると、 「郵便局は何をしている!」 と、思ったりもするのだった。  以前はイモ版やゴム版で版画の年賀状を作ったりしていたが、これが大いに手間どるので、五、六年前から写真年賀状というのにすることにした。  これなら年末に、扮装をしてフィルム一本くらい写真を撮り、中から一枚を選んで、写真屋に発注すればじきにでき上がってくる。  一年目には正月らしく、というので獅子舞のおシシになった。顔を赤く塗り、歯には金紙を貼り、鼻の穴を黒々とメイクして、シューズキーパーの爪先が、おシシの耳に似ているので、これを耳にとりつけ、唐草模様の風呂敷をかぶって、写真にうつる。  二年目はたしか、|えと《ヽヽ》が辰であったから、竜の扮装をした。ボール紙でツノや眉毛や、ハナやヒゲを作って、すべてに金紙を貼りつけて、えらく工作に時間がかかった。  へび年は、へびではなく、おそなえになった。そうして去年はヤッコダコになったのだった。 「今年はどうする?」 といって、もう暮れもおしつまったころに相談になった。ヒツジになっても、あんまりおもしろくないし、門松になると、ダレだかわからなくなる。  お正月らしくて、おめでたくて、バカバカしくて、笑える、となると、「福わらいのお多福になるってのはどうだろう」というので、相談が一決した。  お多福の、目鼻があちこちになって、顔がめちゃくちゃになってるっていうメイキャップにしよう、というわけだ。  まず顔を、まっ白けに塗りたくるのだが、これがなかなか思うように白くならない。  やっと出来たところで、眉だの、目だの、口だのハナだのを、てんでんバラバラに描いてみると、なんだかものすごく不気味になってしまって、正月早々、ホラーな味わいの年賀状が出来上がりそうなので、またすっかり白粉をおとしてはじめからやり直していると、カメラマンのツマがしびれを切らして、 「まだなのー?!」 と、せかすようなことをいう。これは撮影の時には絶対タブーである。バカバカしいことはたのしくやらないといけない。  やらなくてもいい、くだらないバカげたことをやっているのだから、極力ゴキゲンで運ばないと、とりかえしのつかないことになる。  これは、ツマも長いつきあいなのでわかっているから、すぐ気がついて、今のはナシナシといいながら、「ケンカはしないようにしなくちゃね」とわざわざいいに来た。  最初のおシシの時に、実はケンカしたのだ。カメラアングルのことで意見がくいちがった。おシシのメイクのままで、私の顔がみるみる不機嫌になったので、ツマはおかしくてしょうがなかったらしい。  おシシなら、多少の不機嫌もまぎれるが、お多福がご機嫌ナナメではうまくない。  さて、メイクをやや、おとなしめにやり直して、お多福を無事撮り終えたら、今度は、ツマの分の撮影になる。同じようにお多福になるのかと思ったら、自分はひょっとこになるという。  それで、私がメイクをしてあげて、ひょっとこの演技指導をしてあげる。ヤル気は十分にあるものの、いままでの人生で、ひょっとこの顔マネをしてみたことも、してみようとしたこともない(ふつうはない)から、まるで、ひょっとこがなってない。 「ダメダメ、そんなんじゃ、ひょっとこにちっとも見えない!!」 と、私はニナガワユキオみたいに演技にキビシイ。 「そうじゃなく、こう、こう! だから口をとんめらがして、こう!!」 と、力が入る。しかも私はさっきの、お多福のメイクのままである。 「あのさあ」 とツマがいった。 「もしいま、ピンポーンて、宅急便とか来たら、どうするんだろうあたしたち。あたしは豆しぼりの手ぬぐいほっかむりして、ひょっとこだし、シンちゃんはお多福だよ、どっちがハンコ押しにいく?」  ハハハ、それもそうだが、お多福とひょっとこのまま、ここで夫婦ゲンカになったりするのも、避けたいね。  ヒトがみたら、なんというかね。 「まるで、オカメとヒョットコが、夫婦ゲンカしているようだ」  しかも、ダンナがオカメで、ニョーボがヒョットコなんだからな。 「よし、早いとこ撮って、すみやかにメイクを落とそう」  ありがたいことに、その日宅急便はやってこなかった。 [#挿絵(img/036.png、横137×縦217、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] オヤワナマガシ 「南さんとこ来ると、いつでもお相撲のTVやってますね」 と言う編集者の人がよくいるが、もちろんこれはまちがいである。お相撲はいつでもはやってないので、やってるのは二カ月おき、しかも、一場所は十五日間ずつで、うちは社員全員(つまり、私とツマだが)相撲好きで、場所中はたしかに、TVはつけっぱなしであるが、それ以外に「お相撲」はついていない。  敷島関が引退して、今は親方になってしまったので、ひところのように、えのきどいちろうさんとこと二家族で、熱狂的な応援をしにいくということもなくなったけれども、いまは今度横綱になった朝青龍をヒイキにしている。  朝青龍のファンだし、朝青龍のパパのファンでもある。旭鷲山がいまちょっと元気がないけど、旭鷲山も好きだし、旭鷲山のパパも好きだ。うちではモンゴル相撲の勝者のする鷲の舞いとかも、見るたんびに「カッコイイ!」と言ってパチパチ拍手する。  旭鷲山や朝青龍のパパが好きなのもパパたちがモンゴル相撲の力士で、立派な顔と堂々とした体を、あの派手でカッコイイ民族衣裳に包んでいるからだ。 「カッコイイねえ!」  と言って、見たら拍手しているのである。それで、こんどは、朝青龍の本名を覚えてスラスラ言えるようになろう、と二人できめた。  時々、アナウンサーがつっかえたりまちがったりしながら朝青龍の本名を言ったりするんで、がぜん正確に覚えたい! と思ってしまったのだった。調べてみたら、朝青龍の本名は 「ドルゴルスレン・ダグワドルジ」 だった。これは練習しないと、とうていスラスラは言えない。  ちなみに、モンゴル出身力士の本名は、いずれも、まさるともおとらないっていうか、いずれあやめかかきつばたっていうのか、ともかく例外なくむずかしい。あんまりむずかしくて笑っちゃうので、以下に列記してみましょう。 ㈰ニャムジャブ・ツェベクニャム ㈪ダヴァー・バトバヤル ㈫バダルチ・ダシニャム ㈬ダワーニャム・ビャンバドルジ ㈭ムンフバト・ダヴァジャルガル  ㈰が旭天鵬、㈪が旭鷲山、㈫が朝赤龍、㈬が安馬、㈭が白鵬。  もしシコ名が全部本名だったとすると、呼び出し、行司に怪我人続出でしょう。  っても怪我は舌に限定ですけど。  モンゴルに較べると、東欧やロシアは、それほどまでにはむずかしくない。  黒海が、トゥサグリア・メラフ・レヴァン、露鵬が、ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソヴィッチ、琴欧州がカロヤン・ステファノフ・マハリャノフ。 「ドルゴルスレン・ダグワドルジ」  早くスラスラ言えるようになりたい。一体にわが家では、こうした、早口言葉みたいな、ばかげた努力がキライでないらしく、昔からこんなことをよくしているのである。  昨日は、手土産にいただいた和菓子の箱のなかに、しおりのような紙片が入っていて、中に「四季の和生菓子」という字のあるのを見つけて、二人で発音練習をした。 「ワナマガシ」 「シキノワナマガシ」 って言いにくいよなァ、と私がいうと、ツマが、 「うん、でも、ワナマガシだけならまだ言える……親和生菓子、子和生菓子、孫和生菓子だとちょっと言いにくい」 と提案した。なるほど言いにくそうだ。が、和生菓子に子や孫がいるのだろうか? ていうか和生菓子の親ってなんだ? 「じゃ、ちょっとやってみようか」 「オヤワナマガシ、コワナマガシ、マゴワナマガシ、うひゃー言いにくい! オヤワナマガシ、コワナマガシ、マゴワナガシ……」 「もっと早く!!」 「おやわなが……おやわなな……」 「おあやや、おあやまりなさいってのがあったな、ちょっと似てる」  ただ並列するより、やっぱり親子孫ときたら上にのせないとじゃないかな? と私が提案した。 「オヤワナマガシーの背中にコワナマガシのせて、コワナマガシの背中にマゴワナマガシのせてぇ、オヤワナマガシこけたらコワナマガシ、マゴワナマガシ、ヒイマゴワナマガシこけた」  これはかなりむずかしい。そうとう練習しないと、できないと思う。はじめから、あせらないことだ。落ちついて、着実に一歩一歩マスターしていくしかない。 「オヤワナマガシ」 「オヤワナマガシ」 「コワナマガシ」 「コワナマガシ」 「マゴワナマガシ」 「マゴワナマガシ」  オヤワナマガシこけたら、ミナこけたト。ドルゴルスレン・ダグワドルジ。 [#挿絵(img/037.png、横109×縦170、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ご近所の目 「みんな、けっこう見てるじゃん」 とツマは言った。我々はTVの事件報道を見ているのだ、みんなというのは「ご近所の人」である。事件があるとご近所に新聞やTVが取材するのである。「おとなしい人でしたよ、とてもあんなことするようには見えなかった」 とか、必ず言うのだが、それはそうだと思う。のべつあんなことするような顔で近所を歩いてる人はいまい。本人だって、いずれあんなこともしよう、こんなこともしよう、と思ってるわけじゃないし、いや思ってたとしたって、そんな顔をして歩いてやしないだろう。 「けっこうよく見てる」は、だからそういうことじゃなく、 「夫婦仲は悪いほうじゃなかった」 とか、奥さんがサラ金借りてたらしいとか、病院に通ってましたからね、B型肝炎でとか、奥さんは結婚が三回目で、時々前の旦那とも会ってたみたいとか、そういう立ち入った情報をけっこう握ってるところだ。  人間関係が稀薄になったとか、隣人に無関心だとかいうけれども、そして実際そうだろうけれども、 「みんな、けっこう見てるじゃん」なのである。 「旦那さんは、ゴミ出しの係でしたね、奥さんがゴミ出してるとこ、見たことないですよ」と私は近所の人みたいに言ってみた。 「そうそう、いつもフリースの上下で素足にゲタでしたね」 とツマも証言した。 「夜中に、黒っぽい服装して、二人で出かけてくんですよ。アレ、なにしてたんですかね、冬もですよ、完全装備して、真夜中に……」 「あの奥さん、若作りしてたけど、けっこういってるわね」 「旦那、ほとんど頭真っ白でしたね坊主頭で。旦那の方も服装は年相応じゃないよ、六〇ちょい前かな」 「奥さんは、しじゅう……四、五」 「あそこんちは、車持ってなくて、駐車場、月いくらでマタ貸ししてたらしいね」 「そう、三階のコイシバラさんち」 「買い物とかは、どんな感じでした?」 と私はTVの人みたいに尋ねた。 「そうね、つましい感じでしたね、おそうざいのパックとかは買わないし。大根はたいがい葉っぱつきのを買ってました」 「こないだ洗濯機買いかえてましたね、ゴミ置場にダンボール箱あったから」 「旦那さん、勤めには出てるらしいけど、へーんな時間に出てきますよ、いつも、そう、たいがいお昼も一時過ぎとかネ、で、朝帰ってくることも多いんだけど、午前様って感じじゃない。ねむそうだけど、顔赤いことって、ほとんどないんです」 「あいさつは、するのよねえ」 「そう、とんでもない時に、おはようございますとか、そうかと思うと、コンニチワ、コンバンワのタイミングが、少しずつズレてるんですよ」 「なんか、芸人さんとかだったんですかね」 「旦那、買い物してるとこ見たことないですね、以前はタバコ買ってるとこ見たけど、最近はタバコもやめましたね、全然買ってかない」 「ゴミ出しと、散髪の時は必ず、ゲタでしたね、必ずゲタ」 「新聞とりにくるのも旦那でしたね、なんだか妙にキレイ好きなとこあってあの新聞受けのそばに、チラシとかちらかってるの、よくクズ入れに片づけてましたよ、一度なんか、あのデリヘル? とかあのォ、女の子のチラシがはさまってんの、ひとんちの分まで全部とってゴミ箱に入れてた」 「エレベーターのカーペットが、すぐずれるんですよ、奥の方でたわんで入口の方は、地が見えてる。あれ、よく直してましたね」 「そうそうそう、手つきが係の人」 「奥さんは異常に洗濯好き。もう、毎日! 雨降っててもしたそうでしたね。あ、そうだ。その洗濯物干す時がちょっと変でしたよ、いま考えると」 「変? というと」 「洗濯物干す時に、アフガンゲリラみたいな格好してるんです」 「アフガンゲリラ?」 「顔に、真っ赤な布をこう巻いて、ぐるっと、それでそれをさらに首にぐるっとさせるんで、顔がほとんど見えない。体格から旦那じゃないってのはわかるけど、あれは、奥さんだったかどうか、それもちょっと怪しいっていや、怪しいですね」 「あ、あの、さっきあんまり酔って帰らないって話出ましたけど、一度、ものすごく酔って帰ってきて、壁にゲキトツしたことありましたよ」 「えッ? 見てたんですか?」 「いや、ゲキトツしたとこは見てないんですけど、壁にその時の、額の毛と肉片がついてたんです。ギョッとしたんで覚えてたんだけど、それコッソリ、はがして、いつのまにかキレーイに、なかったことにしてありました」 「えッ?!」 「だから、ゾウキンでふきとって、なんにもなかったことにしてしまったんです」 「それは、いつごろの話ですか?」 「そーう、事件のおこる、三年前でしたかね」 「三年前?! それじゃ事件と直接の関係はありませんな」 「ねえねえねえ、あたしたちってさ、なんの事件起こしたのかなあ」 とツマが言った。それにしてもご近所は、よく見ているものである。 [#挿絵(img/038.png、横153×縦221、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] ナメ太の家出  わが国には、フタスジナメクジとチャコウラナメクジの二種類のナメクジがいて、私たちが日常目にすることのできるナメクジは、この二種に限られるといってもいい。  しかも、国産種であるフタスジナメクジは、外来のチャコウラ勢力に押されて、日本のナメクジ代表の座をうばわれそうな情勢にある。  といわれても、ほとんどの人は、ふーん、ともいわないだろう。  在来のフタスジが、チャコウラにとってかわられようとしているのはチャコウラの方が若干脳が大きく、その分敏捷性にすぐれるために、エサの捕食などにおいて遅れをとるものらしい。  といわれても、ビンショウってさあ、ナメクジでしょ、どっちにしたって、とつっこみたくなるし、大体、ナメクジって何食べてんですか? と聞けば、 「まあ、あの、草なんですけどネ。で、野菜を害するってことで害虫ってことにされちゃうんだなァ」 とアダチさんはすこぶる残念そうなのだった。アダチさんは、以前にもふる里の「青梅」の由来を世に広めようと、会う人ごとに青梅の由来を宣伝する奇人としてご紹介をしたことがあるが、とてもいい人だ。  ナメクジは、野菜の害を予防するために駆除する対象としてあることはあっても、塩をかけるだの、ナメクジ駆除剤「ナメトール」という、世間をなめとーるようなネーミングの駆除剤も既にあり「学問的対象になりにくい」ため、日本のナメクジ学というのは、たち遅れているのだ。  とアダチさんは焦慮している。しかし、どうだろうか? 世界でもナメクジはそれほど話題になっているようにも思えないが、大体ナメクジ英語でなんていうんですか? 「slug……ですね」 と、これはさすがに日本唯一のナメコロジストは即答した。  じゃあ、学名のラテン語とかは? 「そんな……私は学者じゃないんですから急にいわれても困ります」 と、いうのだった。だがすぐに、 「マイマイモク、ヘイガンルイのユーハイルイ……陸生の巻貝の一種ですけどね」 と不思議な呪文のようなこともつぶやくのだった。とにかく、どういう情熱なのか、アダチさんはナメクジに現代日本人は注目すべきである、なんとかして現代日本人の耳目をナメクジへ向けたい、と念願しているもののようである。 「わかりました」 と私はいった。 「私もわかりました」 とツマもいった。我々はナメクジに注目しましょう。全日本ナメコロジー連絡協議会の会員二号と三号になりましょう、といった。 「ところで、どこにいったら、ナメクジは見られますか」 とワレワレが聞くと、会長は即座にこういった。 「チャコウラだったら、必ず自宅で見つかります」 「えっ?! じ、自宅?!」  います。各家庭にいる。だってウチ八階ですよ、マンションの。いや、ベランダの植木鉢、裏返したら、必ずいます!! と会長は断言した。  さっそく自宅の全植木鉢を引っくり返したが、ナメクジはいなかった。いませんでしたよナメクジ、と報告すると、会長は納得しない様子である。 「いや……いるはずなんだがなァ」  それからしばらくした頃だった。夜、事務所にツマから電話が入った。 「どうもねえ、国産のフタスジらしいのが手に入っちゃいましたよ」  八百屋で高知産のミョーガを買ったところが、まだコドモの二センチくらいのナメクジがついてきた。  よく見ても、チャコウラらしい退化した貝殻も見えず、背中にフタスジ帯があるので、これは例の国産種じゃないか! とツマはよろこんだそうだ。うれしかったので八百屋のおにいちゃんに「ちょっとちょっと」と声をかけた。 「コレ……」と指さして、フタスジナメクジといってね、いまではめずらしいナメクジなのだ、と説明しようとしたらしいのだが、おにいちゃんは見るなりあわてて、 「あ、とりかえます!!」 「い、いや、これでいい、いいんです!!」と、ツマはさらにあわててそのフタスジをダッカンしてきたらしい。  そんなわけで、ついてたミョーガに、レタスの葉っぱをかぶせて、いま、部屋のスミにいてもらってる、ということなのだった。  夜、帰ってみると、たしかにいた。ミョーガの上にペタリと横たわっているが動かないので、生死不明である。いちおう我が家で飼うことにした。くず野菜を食べてもらえばいいわけだろう、家計にはひびかないし、うるさくないし、いいじゃないか。  会長に電話すると留守で奥様が出られた。会長宅でも飼っているらしい。湿った土があった方がいい、というのと、外に出たら戻らないからいちおう、アミ状のものをかけた方がいい、とアドバイスをうけた。 「名前はやっぱり、ナメ太かな」 とツマから提案があり、私は賛成した。それからは毎日事務所から帰ると、レタスをめくって、生存確認をしていたのだが、三日目ナメ太が忽然と姿を消した。  どういうつもりなのだろう、何が不満だったのだろう。  近頃のナメクジの気持はよくわからない。 [#挿絵(img/039.png、横157×縦134、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] オキモノノオジョウサマ 「あのさあ」 と、ツマが言った。ちょっと言い淀んでる。エッ? 何、どうしたの。 「昨日、着物着てったでしょ」  そしたら地下鉄の階段とこでおじさんに「お嬢様」って呼ばれちゃったよという話なのだった。 「え? みのもんた?」が、いたのか? と私は訊いたのだ。そうじゃない。ああいうんじゃなく、冗談ぽくない、ものすごく大まじめで大声なの。 「お、お嬢様っ!! そ、そこ濡れております! 高価なお着物が!」 って、まァ親切なんだけどォ、なんていうか、ちょっとお芝居のヒトみたいで恥ずかしい。 「ふーん、バター犬みたいな?」  バター犬は、亡くなった谷岡ヤスジさんのマンガに出てくる犬である。バターを背中にしょっていて、やらしいサービスをする犬だ。サービス業なので世間話をする。 「しかしなんですねえ、おぜうさま、イラクもあんなことで、無政府状態で」 とか言いながらおぜうさまに勝手にサービスをはじめてしまう犬だ。  だから、そういう商売的なのじゃなくて、ちょっと昔の人がタイムスリップしてきちゃったような、ヘ〜〜んな感じなの。  なんていうか、ジイヤとかゲナンとかそういう昔のお話の中のヒトみたい。  ハハハ、と私は笑った。ツマが困って照れてるところが想像できた。声には出さないが、「や、やめろよォ」と頭の中で思ってる。着物は着てるけど、別に「高価なお着物」じゃないよ、みんなが見るからやめてくれえ!  と、いうことだろう。しかし、今まで生きてきて「お嬢様!」なんてお嬢様呼ばわりされたことはあるまいから、ちょっと悪い気はしてないのでは、と私は見た。 「奥様!」でも相当すごいのに「お、お嬢様あ!!」である。これはウロタエルだろう。けどちょっとウレシイ。  おじさんは、黄色と青の、インキの箱みたいな配色の制服を着た、掃除の係の人らしい。伸ちゃんも、ちょっと注意してチェックしとくといいよ。  ということだった。もう少し間があいてしまえば忘れてしまったところだが、それから三日もしなかったと思う。プラットホームを歩いていると、後ろから、 「旦那様あ!」 という、確かにジイヤっぽいような、ゲナンっぽいような話しぶりの声が聞こえたのである。 「それでしたら、あちらの階段をお昇りになりまして、こちらの方向をお向きになりますと……」と、ていねいに道を教えているようなのだが、その声音がケタ外れにテイネイである。っていうか現実ばなれしたへりくだりようなのだった。 「このおじさんだな」 とわかったので、私は目立たないようにナチュラルに、そっちの方をうかがってみたのである。  モップを持って、キチンと制服のボタンを律儀にとめて、ややズボンが短めだが、全体に折目正しくしている姿勢のいいおじさんである。すると、 「すいませーん、あのおトイレ……」という女の子の声がした。 「あ、はいッ! お嬢様!! こちらを行かれますと、はい、あのベンチの先右側にございます」 と、たいそうテイネイなご案内である。お嬢様は、別にお着物は着ていなかった。洋服のごくありふれたそのへんのOLだ。 「今時ねえ」と私は思ったのだ。これはたしかにタイムスリップである。下男の留吉だ。今時コントにも出てこない。 「旦那さん、ピーナツいらねかね」とか「旦那、高速のりますか?」とかそういう言い方をする人も、まァ二〇年前にはいた。  そして、その頃私は三〇代であってあんまりその呼び掛けには、ふさわしくない違和感があったものだ。今なら「旦那そりゃないよ」くらい言われても、まァおどろかないが、 「旦那様ァ」は、やっぱりちょっと、違和感がある。その発声のニュアンスが、 「お代官様あ!! おねげえですだ」みたいなのだ。いや、そうじゃないな。 「お殿様!! もったいのうございますうー!!」みたいなのだ。 「いたよ、すごいね、あれはやっぱり、タイムスリップしてきたな。じゃなかったら、ついこのあいだまであったお屋敷のご主人様が一〇八歳で死んじゃったと思う」 「そうでしょう? みんな見てたでしょう? 声大きいし……」  たしかに見ていた。ものすごくていねいに道や便所を教えてもらったのに、それぞれおじさんの後ろ姿を白眼視していた。 「おじさんは、サービス業っていうものに哲学持っちゃってんじゃないかなァ」 とツマは少し解釈がおじさん寄りだ。 「いや、おれはやっぱり、地下鉄のタイムトンネルくぐってきたと見る」 と私は言った。 「その後、声かけられた?」 と聞くと、かけられてないらしい。着物着てないからなァ、声かける必然性がないのよ、とツマは言うのだった。  先日また着物を着る機会があった。出かける時、 「おじさん、いるかなあ……」 と、ツマはやっぱり期待してるようなのだった。 [#挿絵(img/040.png、横124×縦241、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] いまどき、ケータイ  いまどき、ケータイ電話を買ってしまった。つまり、いままでケータイ電話を持ってなかった。  買わなかったのは、ケータイ電話に批判的だったからではない。目のカタキにしてたわけでも目クジラを立てていたわけでもない。  ようするに必要なかったのだ。たいがい事務所にいて、手許に電話が置いてあるし、外出先で電話の必要があるときは公衆電話からかければよかった。  ただ、一度だけこんなことがあった。古河に蓮見に行った時だ。真夜中から明け方まで待機して、蓮の香りをかぐ。満喫して、さて、駅まで帰るタクシーを呼ぼう、というのでいつもそこから電話をしていた公園入口の電話BOXのところまでいくと、そのBOXがコツゼンと姿を消していたのだった。あれは何年前だったか?  ともかくしかたない。どこか赤電話のあるところを探そう(赤電話は実はもうとっくの昔からない。あるのは緑電話だが、近頃は緑電話とも言わないし、そもそもその緑もどんどんなくなっているのだった)。  楽観していたが、そんなものまるで見つからないのだ。大通りに出たが、時間も時間(平日の午前中)だし、都心でもない場所に流しのタクシーはいない。つまりタクシーもいないし、それを呼ぶ電話もない。  そのうち、真夏の太陽は真上に昇ってきて、ジリジリ、ジリジリと旅人に照りつけるのでした。旅人はもともと夏だから外套も上着も着ていません。Tシャツを着てるだけですから、それを脱いでもしかたない。  暑くて暑くて、フーラフラです。しかも公衆電話のありかを尋ねようにも人っ子ひとり歩いていないのです。国道にはビュンビュン車は通りますが、ヒッチハイクをしようにも、その道は駅にはつながっていない。 「このまま、俺たちって、遭難しちゃうのかな」 「行き倒れで、野垂れ死にかもね」 と、冗談のつもりで言ってたが、おいおい、冗談じゃないですよ、という場合なのだった。  たしか、その時にワレワレは言った。思わずハモるように同時に言ってしまったのだった。 「こんな時、ケータイさえあったなら……」  その時は、うちが加入している「生命保険会社」のビルがあったので、そのビルにツマが電話を借りに入ったのだった。別にお宅の保険の加入者だ、と大イバリするまでもなく、電話は借りられたのだったが、保険会社の人も、ケゲンな顔をしていたらしい。 「いまどき、なんでケータイ持ってないんだろ、この人……」 と、思ったに違いない。まるで野中の一軒家に一夜の宿を乞いにきたような心細い顔をして。  それで、帰宅するや早速ケータイを買ったかというと、そうしなかった。電車に乗って帰ってしまえば、もう、あんなにおそろしい目にあったこともアッサリ忘れてしまうのだ。  それで、ケータイのないのを、むしろ楽しんでいたキライもある。何人かのオジサン同士で電車に乗っていた時のこと、そこにいたオジサン全員、ケータイを持ってなかった。  二ツ折りになるサイフを取り出して、ケータイ使ってるケータイ模写をしてゲラゲラ笑ったりした。 「あ、オレ、いま電車ん中だから、こっちからかけ直す」 とか言ってサイフ、パタンとたたんでポケットにしまったりする。  しばらくすると、今度はメガネケース取り出して、これはタテにパカッとしかならないのに、それ無理やり耳にもってきて、 「いま、何してるう? オレ? オレ、いまメガネケースで電話してんの」 とかやって、前の座席の人たちに、失笑されたりしていたのである。 「ケータイ持ってない」話に酒場でなったら、途中で帰ったハズの嵐山光三郎さんが戻ってきて、 「シンボーにこれやる」 と、オモチャのケータイをもらったことがあった。暗いところで見ると本物に見える。ボタンを押すと、着メロが鳴る。外人が話しかける声がするのだ。 「ヘロウ、ナンチャラカンチャラ」 「あ、えーと、もしもし、もしもし……間違い電話かな?」 とか言って、またゲラゲラ笑ったりしていた。  ところが、近ごろ、ますます公衆電話が激減しているのだ。このまま放置したら絶滅するぞ、保護しなくていいのか? 公衆電話。  そういえば昔、電光掲示板の時計がそこらじゅうにムヤミにあったけれども、いまは全く絶滅した。ビルについてる時計もなくなった。  いよいよ、ケータイに実用性を感ぜざるを得なくなったのだ。遂にケータイ導入に踏み切ったのは、ゴールデンウィークに温泉旅行に出る時だった。  雨がポツポツ来た、閑散とした湖のそばの売店のあたりから、 「ほら、やっぱり電話がないよ」 と、今度ばかりは電話がないのをよろこびながら、タクシーを呼ぶのに、ケータイを使った。あれからもう、かれこれ二週間になるけれども、三通話しかまだ使ってない。 [#挿絵(img/041.png、横145×縦227、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 鈴虫のおかげ  スーパーで鈴虫を買ってきたのにはワケがある。私はかつて、鈴虫に家庭の不和を救われたのである。  不和の原因が何であったのか、それは今では、ツマも私も忘れてしまった。ともかく二人でフクれて、お互いに黙りこくっていた。  全体、わが家のケンカは、あまり長続きはしない方だ。意地を張って、絶対相手が折れてくるまで口を利いてやるものか、と思ってはみるものの、たいがいどちらからともなく折れあって、じき和平がなってしまう。  ところがその時は、どういうものかお互いの意地が拮抗して、気まずい沈黙が持続した。息がつまりそうで、スグにも折れたいのに折るに折れない。  自分の呼吸を数えるように、そうしているとき、突然、 「リーン……リーン」 と鈴虫が鳴いたのだった。卵から育てて、虫の形になって、動き回るのを見るようになっても、それまで鈴虫はなかなか鳴かなかったのだ。  どうすれば鳴くのか、いつになったら鳴き出すのか? とリビングの真ん中に甕《かめ》を据えて、毎日、のぞいていた、その鈴虫が、はじめてその日の、その時に鳴き出したのである。  二人とも、声に出さずに「あ」と思った。  息を殺していると、いったん鳴きやんでいた鈴虫がまた、 「リ、リーン……リーン、リーン」 と鳴き出したのだった。  たまらず私が口を開いた。 「せっかく鈴虫が鳴いたのに……」  すると、ツマがぷッと吹き出して、結局、どちらがアヤマルでもなく、自然に平和がおとずれたのである。  もう、かれこれ、五、六年は前のことだった。  今回の不和に関しては、その原因はさすがに分かっている。明らかに私が悪かったので、あやまった。  あやまったが、ツマの機嫌が直らない。めずらしいことなのだ。根にもたないタイプで、いつもはあやまれば、アッサリゆるしてくれる。ところがどうも今度は腹に据えかねたらしい。  いたたまれずに、私は家を出て、なぜだか、スーパーにフラフラと入っていったのだった。そこで、プラスチックのカゴに入れられた鈴虫が、売られていた。明るい店内で、しかも真っ昼間だというのに鈴虫はさかんに鳴いている。  私は、鈴虫に加勢してもらって、ツマと仲直りしようと考えた。鈴虫を買っていって、自分の部屋にひそかに置いておく。  口を利いてくれないツマに、短いワビ状を書いて、その上に鈴虫のカゴを置いておく。誰もいないハズの私の部屋から、鈴虫の鳴く声がするので、おや? と入っていくと、虫カゴでおさえたワビ状のあるのに気がつく。  という寸法だ。自分が悪かった。もう休戦しよう。と、そうすれば鈴虫に免じて、また吹き出してくれるだろう。  私はその時限装置をしかけたまま、黙って家を出た。ツマは身体の具合が悪くて、その日は家にずっといたのだった。  夜、帰宅して、様子を窺うけれども変化がない。店であれだけ鳴いていたクセに、鈴虫はどうもまだ一声も発していないらしい。 「せっかく」の鈴虫が、ちっとも鳴いてくれなかった。  結局、どのようにして、休戦がなり和平がおとずれたのだったか、ついこのあいだのことなのに思い出せない。ツマが、いいかげんゆるそう、というのでゆるしてくれたのだろう。  そうなって後、私は時限装置のことを打ち明けた。実は…… 「鈴虫にまた、助けてもらおうと」したんだけど、空振りに終わったらしい。 「鈴虫、まだ鳴いてないよね?」 「鳴いてない。鳴いてないけど、鈴虫に鳴いてもらおうとしてたのは、知ってたよ」  ハ、ハ、ハ、しまらない話だなァ、と私は言った。言ったところで、鈴虫が鳴き出したら、これはこれで、話のしめくくりにはなるのだが、鈴虫が実際に鳴き出したのは、さらに二、三日たってからのことなのだった。  鈴虫は、キュウリやスイカを食べる。土をしめらせてやって、タンパク源にニボシを一匹転がしておく。カビのはえないように、隠れる空間をつくるように木炭をいくつか配置する。キュウリは、ヨージにさして、木炭をつたって、食べに行けるようにアンバイする、といったような鈴虫の世話は、すべてツマがやってくれた。  鈴虫はオス二匹、メス二匹。例によって、スズ吉、スズ太、スズ代にスズ子と名付けたけれど、オスメスの区別はつくものの、どちらがスズ吉で、どちらがスズ子なのか、わからない。  鈴虫は、とっくに仲直りのなった後、リーンリン、リーンリン、盛んに鳴いた。しばらくして、スズ吉かスズ太のどちらかが死んで、残ったスズ吉かスズ太が、それでもハリキッて鳴いていたが、そのスズ吉かスズ太も死んでしまった。  残ったスズ代とスズ子は、天井がわりの薄いザルをはいでみると、木炭の上や、キュウリの上にいて、触角を、ウヤムヤと動かしている。  結局、思惑通りに、はかったように協力してくれたわけではないけれど、結果的に、私は鈴虫のお世話になった。 「鈴虫が鳴かない頃にケンカしてたら……」とツマが言った。  どうやって仲直りしたつもり? [#挿絵(img/042.png、横133×縦245、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 近頃のジジイ  若い頃にはまったく思ってもみなかったのに近頃「まったく近頃の若い者は」と思っている。私はまんまとジジイになったみたいだ。  当然のことなので、私は今年五六で、つまり四捨五入したら六〇の爺さんだ。  なんだって近頃の若い者は……と思うのは、真夏日に毛糸の帽子をかぶってる若者を見たりする場合だ。  まったくどういうつもりだ。脳ミソ蒸かそうってのか?!  近頃、アンクル・トリスが復活してCMに出てくる。まったく近頃の若い者は……とオヤジBが言うと、ツルっぱげのアンクルが「すいません……」とあやまる展開だ。  オヤジBの方がビックリすると、自分を指して「近頃の若い者」って言う、あのCM。あれを考えたのは、ゼッタイに近頃の若い者に違いない。少なくとも、五六にはなってないと断言する。  ジジイになる気持よさ、というものがあるのだ。ジジイになって若い者に悪態をつく快感。つかずにいられない気持というのがあるのだ。と、五六になってわかったからだ。  先日、二〇年前に連載していた対談を、本にしたいと言ってきた若者がいて(よくよく考えると、彼ももう若者ではないのだったが)その本のために、その昔のメンバーで座談会をした。  呉智英、糸井重里、鏡明にそして私。当時は近頃の若い者だったジジイどもである。座談会をまとめていた関三喜夫は既に亡くなっている。  中華料理屋で収録となって、その個室の隅におあつらえに立っていた帽子掛けに、呉智英がかぶっていたパナマをヒョイとひっ掛けると、糸井重里がパチパチ手を叩いて言った。 「呉智英、自分の理想のジジイ像、演《や》ってるだろ」  たしかに、どこから見ても昔ながらのジジイに見える。 「イヤ、まだまだ、本当は印税でもうかって、般若の飾りのループタイするのが目標なんだ。純金ムクで目玉んとこにルビーがはめてある」 「そういや、オレ、呉智英にすすめられて、帽子買ったんだよパナマ……」 と私が言った。 「今日はかぶってないじゃないか」 「うん、どうもまだちょっとね、なかなかイキオイがつかない」  買ったのは去年の夏だった。銀座にトラヤって昔からある帽子屋があって、そこで、思いっきり奮発してパナマを買った。  買ったその場でかぶって、事務所まで歩いてきたのだが、なんだか帽子だけ浮いてるようで、それっきりになっていた。分不相応に上等なヤツを買いすぎたらしい。  呉智英は、もともと帽子が好きでかぶりたかったのだが、なかなかキッカケがつかめなかった。そうこうするうちにハゲてきたので、まるで、|だから《ヽヽヽ》かぶったようだが、断じてそうではないのである! と言い張っている。  さんざんからかったのだが、気持がわからないでもない。なんだか、昔、自分がコドモだった頃のオトナの格好をしてみたくなる年頃になっているらしい。  昔、自分がコドモだった頃の様々なモノ、たとえばブリキのバケツだのジョウロだの、ガラスの笠をつけた電球だの、竹箒だの、七輪だの、そういうものに奇妙に愛着があるのだ。  夏の服なら、麻の太いズボンに開襟シャツ、尻のポケットに扇子を入れて、となると、パナマもかぶりたい。  黒沢明の映画に出てきた刑事みたいに、ハンカチでつるりと頭の汗を拭いてみたりしたい。  なかなか、かぶる機会のないパナマはそのままにして、もうちょっと安物の麦ワラ帽や、粗く編んだ網状の帽子を買って、今年はずいぶんかぶった。  たしかに、カンカン照りの下を歩くのには、帽子をかぶっている方が涼しいのだ。  着物に帽子っていう格好も、この夏は何度かした。その度に、例のパナマもかぶってみるのだが、どうも落ちつかない。結局慣れた方にした。  帽子をかぶることについては、かぶるうちだんだんに慣れてくるようなのだが、それをかぶってみると、まだまだ、分不相応のような気分になる。  ところが、なのだ。どういうわけなのか「近頃の若い者」が、今年はその昔のオヤジ風の帽子を、あえてかぶるのが流行るらしい。  自分が帽子をかぶってみると、帽子をかぶった人が目につくようになるが、今年は、一〇や二〇のハナタレ小僧が、こっちが、やっとの思いでかぶるようになった帽子を、ヒョイとかぶりだしてしまったのである。  毛糸の帽子をかぶるより快適なのに気がついたのか、いや、単に流行っているからに違いない。  道を歩いていて、あッ!! と思う。そういうヤツが欲しかったんだ、という帽子を、そのハナタレがかぶっていて、しかも、まるで平気でかぶってるから、帽子が浮いてないのだ。 「まったく……」 と言ったまま、ジジイになりきれてないジジイは、くやしいのだった。  オレはなぁ……流行ってるから帽子かぶろうってんじゃねえんだ。流行ってないから、かぶろうと思ってたのに……ちきしょう、勝手に流行らしたりするない! という気持だ。  それにしても、たかが帽子をかぶるくらいに、こんなに大げさなのが、やっぱり我々くらいな、中途ハンパなジジイの心理なのだろうか? [#挿絵(img/043.png、横136×縦238、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 和太鼓ルーム 「伸ちゃん、どうするよ」 と、トートツにツマが言った。どうするって何が? 「タイコですよ」  コレ、と新聞の記事を指差している。 「若い女性の間で和太鼓がブーム」  らしい。ツマは若い女性ではないが、「太鼓好き」である。若い女性だったころから「太鼓好き」だった。 「あたしゃ、くると思ってたよ!」  和太鼓を思いっきりたたくと、ストレス発散にいいらしい。通勤の帰りに和太鼓教室にいって、ドドンガドン! あ、ドドンガドンとか若い女性が大勢でたたいているらしいのだった。  ツマは住職の友人の所へ遊びに行った時、本堂にあった太鼓をじっと見ていて、いきなり、 「たたいていいですか」 と単刀直入に切り出したことがある。  エ? あ、いいですよ、と友人が言うと、思いっきり、 「ドン!!」とたたいた。  ドン、ドン、ドン! とたたいた。腹にひびくような音だ。うわッとおどろくような音である。  我々のほかにダレもいない本堂は再び静寂をとりもどした。のだが、ツマはまだ、もの足りないようなのだ。友人の方をじっと見ている。 「いいですよ、好きなだけ……」 と友人が察してそう言うと、遠慮なしにバチをとって、今度は、 「ドン、ドン、カッカッカッ」 「ド、ド、ドン、カッカ」 「ドン、ドン、カッカッカ」 「ド、ド、ドン、カッカ」 とやり出した。 「おい! ダメ!」  ダメだそれは、それお祭りのダシの太鼓じゃねえか!  そこは日蓮宗のお寺なのである。 「ははは、いいですよォ何でもー」 と友人は笑っている。近所の人が聞いたら、まァ、コドモが太鼓たたかしてもらってると思うだけだろう。 「ドンツク、ドンドン!」 「ドンツク、ドンドンドン」  どんどんよくなる法華の太鼓っていうけれども、いきなりシロートが、 「ドンツク、ドンドンドン」 「あ、ドンツク、ドンドンドン」 「ドンツク、ドンドンドン!」と、あんまりウマイのも、ヘンかもしれない。 「人間はタイコをたたきたいもんだよ、人間はタイコをたたく動物だ」 と、ツマは格言を言うように断言した。世の中に、タイコをたたきたくない人間があるだろうか? と、訊くので、そりゃあるだろうよ中にはタイコのキライな人間もいるよ。 「うんにゃ! いない!! タイコを見せられてたたきたい!! と思わないなんて……」 「人間じゃない?」と私が聞くと、「そう!!」だと言った。 「伸ちゃんはさァ、時々、うーんタイコたたきてぇ〜〜!! って思うことないの?」  いや、オレはタイコたたくのキライじゃないし、昔はタイコたたいて、紙芝居タダで見てた人間だからな、と、私はコドモ時代の話をした。  紙芝居屋のオジさんがくると、私はふれ太鼓のバイトをして、紙芝居代とウサギ(水飴とソースせんべいで作る)を稼いだのである。オジさんはその間しんせいをうまそうに一服していた。 「ドン、ドン、ドンガララ」 「ドンガララッタ、ドン、ドン」  よく教えられもしないですぐたたけたもんだと思うが、必死だったんだろう、オジさんとソックリにたたけたので、このバイトは成立したのだ。 「でも、太鼓ってさァ、音がうるさいんだよねぇ、だからなかなか自宅とかじゃ出来ないのよ」  ツマは太鼓を、できれば自宅とかでたたいてみたそうなのだった。  ブームっていっても、そこがネックだな、と言ってるうちに「企画会議」になってしまった。我が家ではよくこんなカタチで企画会議になるのである。依頼がなくても、自発的に検討する。 「和太鼓教室ってカタチじゃ、そうそうは広がらないと思うんだよ」 「太鼓の達人っていう、ゲーム機があるんだけど、けっこう流行ってる。リズムがちゃんととれると、点が上がるっていうゲームなんだけど、あれ、やってる人数ってバカになんないよ、和太鼓たたきてー!! って潜在ファン、かなりいると思う」 「教室もアレだけど、やっぱ、こう聞いてもらいたいってのもあるでしょ、どうかなァ、カラオケみたいに、和太鼓バーっての作るのは」 「のんでる時、そばでたたかれるってのはどうかなァ」 「うーん、あ、じゃあさ和太鼓ルーム、和太鼓ボックスってのもいいかもしれない」 「そうか、今あるカラオケの一部、和太鼓コーナーにすればいいんだ。和太鼓用のCDカラオケもいいな、歌詞のかわりに、楽譜がテロップで流れてさ、なんか、かがり火かなんかたいてるの海岸で、荒海の波がこう逆巻いたりして、ロケ地佐渡とかって出る」 「ふんどし、もありだね。そうすると、そういう趣味の層もとりこめるし、いいねえ! いけそうじゃない」 「無法松の一生も使えるね」 「オンデコ座にあわすとかもアリ」 「ドンツクドンドン、ナンミョー、ホーレン、ゲーキョウもありだよ」というふうに企画は煮つめられた。 [#挿絵(img/044.png、横144×縦193、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 精肉店のクリスマスツリー  自慢じゃないが、私が住んでいるのは東京の秘境みたいな所で、雑誌がとりあげるような小洒落た店はない。  パティシエのスイーツがどうしたの、ヌーベルがキュイジーヌだかイタメシヤだか知らないが、一切、金輪際に無関係だ。  ところが、最近、ふつうの中華屋だとばっかり思ってた店が、女性誌かなんかに紹介されてたらしいのである。 「ちょっと、チェックしとかないと」 「うん、そうだな」 というんで、こないだちょいとチェックしてきたのであった。  お店は中国人の夫婦がやっていて、おいしかったので、くわしく書かない。沢山食べ過ぎたので、腹ごなしに夜の散歩をしたことを書く。 「えーと、今晩のテーマはねえ」 と、うちの企画課がいった。うちの企画課はなかなかやる。テーマを出されると、マンゼンと歩くより散歩がずっと面白くなる。 「そういや、われわれが世界遺産に指定した地域が、またもや再開発の美名のもとに、単なるビルになってしまったなァ」 「それはそれとして、今夜はクリスマスイルミネーションてことではどうか?!」 ということになったのだ。 「ウハハハハ」 と、私が笑ったのは、そういうものは、この近辺にはないだろう、と思うからである。  新興住宅地とか、いわゆるオシャレでハイソがいけてるような地域なら、まるで自分ンちを、ディズニーランドかなんかみたいに、豆電球でかざったりするらしいけど、この辺はさあ……というと、企画課は立ち止まって、指さしている。指の先を見ると、なるほど、あるのだ。小規模ではあるが豆電球がついた、クリスマスっぽいなにか、のようなものが、たしかにふつうの二階家の窓で点滅している。  いつになく早めにとった晩メシで、それでも、中華屋を出てきたのは、もうかれこれ九時くらいだったろうか。大通りに面した商店がいくつかあるけれども、たいがい既にシャッターは下りている。  金物屋、割り箸屋、探偵社、不動産屋、謄写版屋、漢方薬局……。と、ツマがまた立ち止って振りかえった。そのままかたまって、 「いま見た?!」 と、聞くのである。 「え? 何を」 といって私が首をめぐらした時である。  シャッターが半開きになった精肉店、といっても暗くてその時には、くわしい様子は皆目わからなかったのだが、なにか、ウィンドウ式になった冷蔵庫の上かなんかに、はなはだ中途はんぱな大きさのクリスマスツリーがおかれてあって(高さ四二センチメートルくらい)、おそらく天然モノではないツリーで、いくつかの豆電球と、旧式な感じのカザリものがついたヤツが、 「パッ」 と、点いてあわてて消えたのだ。その間合いが、まるで人に見られて、 「あッ!!」 と思って消えてしまったようなのは、その後、いっかな点灯しようとしないからだ。  が、もちろんわれわれが、そのまま見逃すわけはない。振りかえった形のまま、われわれは待った。まるで、楯の会が自衛隊の諸君の呼応するのを待つように。  テキは、もうそこらには人はいまい、と油断したのだろうか、また、 「パッ」 とついたが、また気がついたらしくあわてて消えて、あとはヒッソリその冷蔵庫の上で、まるで黙ってしまったようにいるだけである。 「ダルマサンガコロンダ」 と私がとなえるとツマが笑った。そうして、その恥ずかしがりみたいなツリーを許してやって、次の獲物を探しに前進したのだった。  結論的にいうと、結構この地区においても、クリスマスイルミネーションは流行っているのだった。中には、もうちょっとで放送局が取材にくるかもしれないくらいに大がかりに取り組んでいる家庭もあったのである。  三頭立てのトナカイのソリが「空車」になってて、オヤ? と思うとサンタクロースがその家の窓にとりついて、今にも進入せんとしている様子が、インスタレーションしてある。  豆電球でそれらはフチドリされてあって、星や雲をかたどったサインが、点滅し、まるでイルミネーション看板のように、流れるような動きまである。サンタクロースが、ちょっと見、作業中に首を吊ってしまったように見えなくもないが、それも含めて力作だ。  雪の結晶を表現している家、複雑でふしぎな点滅をする、ハイテク導入の家……なんだ、その気でみると、結構多いじゃないか。  というので、それぞれの家の前で、小さく拍手してやったりした。  しかし、なんといっても、 「やっぱり精肉店のクリスマスツリーだよなァ」 「あれはカワイかったねえ」 「タヌキが化けてたかもしれないな」 と、われわれは、あの恥ずかしがりのクリスマスツリーをほめたたえた。  できたら、あれ、本チャンの一二月二四日にも、見物に行くかな、と思った。 [#挿絵(img/045.png、横129×縦238、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 大晦日、狐の行列を見る 「伸ちゃん、どうしようかァ、ボブ・サップ vs 曙も気になるけど、狐の行列ってのも放っとけないでしょ」 とツマが言うのである。大晦日から元日にかけて、王子で狐が行列するらしい。ホラといって切りぬいた新聞記事を渡されて見てみると、なるほど狐が行列している写真がのっている。  写真は去年のものらしいが、人間に化けた狐が、ちょうちんを持って行列している様子が、ハッキリクッキリ写っているのだ。  ツマは、どういうわけだか、提灯好きで、実家の千葉で使う、こんばん提灯や、お祭りにコドモが持つ提灯やら五、六コの提灯を所蔵している。  夏にはその六つばかりの提灯にすべて火を入れて、部屋中に吊るしてみたのだったが、なるほど提灯のあかりというのはなんとなくうっとりさせるような情緒がある。  狐の行列が出るのは王子で、我が家からもスコブル近所だ。広重の名所江戸百景の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」っていう画があるが、行列はどうもこれと関係があるらしい。 「おもしろそうだ」と思ったら、即実行というのが、うちのヤリカタで、よし行こう、というので私は着物にトンビ、鳥打帽をかぶって出かける態勢になった。紅白歌合戦は、誰が歌っていた頃なのか、あんまりチャンネルがあっち行き、こっち行きしていて思い出せない。  格闘技の方は、吉田秀彦がホイス・グレイシーに負けてしまったが、ホイスは柔術家のくせに道着を脱いできて、ズルイ奴だ、というのが我が家の世論であった。  そのくらいの時期に家を出て、王子の装束稲荷というところまで、タクシーで出かける。  狐火と書かれた黄色い提灯が、たくさん吊りさがっていて、とてもカワイイ。行列の狐が和服を着ているせいなのか、見物客も和服の人が多い。  狐のお面や、きつねまんじゅうや、おいなりさん、甘酒、きつね酒など売っていたらしいが、ワレワレが着いた頃には売り切れたものが多かった。  狐のお面は、昔風の和紙でつくった泥絵の具の本格的なもの、印刷でつくったものもなかなか雰囲気があっていい出来だ。  三種類も買ってしまった。本命の提灯はすでに売り切れてしまったらしい。行列は一二時きっかりに装束稲荷を出発して、王子稲荷までの七〇〇メートルばかりを歩くらしい。  和服に、きつねのお面をかぶった人が何人もいる、と思ったら、顔に直接狐のメイクをした人も大勢いる。  白塗りをした上に、赤と黒で目鼻のフチドリをして、鼻のそばにヒゲが描いてあるのがバカバカしくて、とてもカワイイ。  化粧をしてあるからなのか、その顔を通行人がジロジロ見ても、一向に平気である。鼻が黒くしてあって、鼻のワキには三本ヒゲが描いてあるから、なんでもない時にやってたら、大笑いのハズなのに、あんまり平気に澄ましてるもんだから、人が狐に化けてるというよりも、狐が人間に化けてるふうにしか見えない。  町内の若い衆も、五、六人焚き火にあたってる顔を見てみると、みんな狐になっている。小さなコドモの狐はいっそうカワイイ。あちこちニコニコ歩いていると、ツマが女狐に「メークをしないか?」と誘われたらしい。  いったんは断ったけれども「やっぱりしてもらおうかな」と言いだした。なるほど、いっそ狐になってしまったほうが、もっと楽しいかもしれない。残念なことに、決意したときはもう、メークの狐はいなくなっていた。  狐と人間が交じっていて、狐にカメラを向けてる人もよく見れば狐である。案外、若い「女狐」も多くて、たいがい派手な古着の晴着を着ている。人間だと派手すぎるくらいなのが、かえって幻想的でいい。このイベントは案外これから若い女の子に人気が出るのじゃないか?  行列の時間までドトールで時間をつぶす。店のテーブルで年賀状の宛名書きをしている狐がいて、そのうち、同類らしい新顔の狐が入ってきた。「ボブ・サップがさァ」とか「曙もー」とか言っている。  どうやら、この大晦日にはじめて、格闘技を見たものらしく、PRIDEとK—1はどう違うのか、プロレスとはどういう関係なのか? といったギロンになっていて、耳を澄ましていても、曙が勝ったのか、ボブ・サップが勝ったのか判然としない。結局、勝負がアッケなかったことだけがわかる。  突然、元旦のカウントダウンが店内で起ったが、いきなりキスする人は一人もいなかった。さて、行列が来るはずだ。店を出て、歩道で待つ。  行列は、ほ……ん……とう……に、ゆっくりと、ほんとにただただ歩いてくるだけだった。裃をつけた、いかにもマジメそうなおじさんが、例の三本ヒゲで鼻の頭を黒くしているのは、素晴らしくカワイイ。  ワレワレの前を行列が通り過ぎたところで、またタクシーに乗って、さっと帰ってきてしまった。  暖かい部屋で一息つくと、先刻までのことが、まるでマボロシだったような気がしてきた。 「来年は、家からキツネになって行くってのはどうか?」とウチのキツネはやる気十分である。 [#挿絵(img/046.png、横96×縦221、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 節分のナマオニ  夕暮れの現場につくと、既に非常線が張られている模様だった。制服警官だけでなく、沢山の警備の人々が立ってものものしい雰囲気である。  二基のかがり火が盛大に焚かれていて、風にあおられた火の粉が飛ぶと、今にも一帯に引火しそうだ。ヤジ馬を入れないためだろう、太い杭が打ちこまれて、頑丈な柵がめぐらしてある。 「どっちからくるんですかヤツは」と私は通りかかった巡査に訊いてみた。 「例年通りなら、あの太鼓橋の方からだとは聞いてますが、ウソかホントかたしかなところはわかりません、私も今年はじめてなんで」  鬼がでるのは「例年」のことらしい。しかし、示された太鼓橋の方角は、きびしく柵で閉じられていて、かがり火はまさにそこで燃え盛っているのだ。  亀戸天神の人出は、存外控え目だった。落ちついてまわりを見回してみるとはんてんを着た警備の人は、近所の顔見知りと笑顔で挨拶を交わしている。 「カントク! カントク!」と、コドモ達にからかわれるように呼ばれている人がいる。カントクはどうもサッカーか野球のカントクらしい。 「そんなとこじゃ、豆は拾えないぞ。アッチアッチ、アッチいって待ってなきゃ」 とカントクは指図した。木枯しが吹いて、空がだんだん夜になり、かがり火がさらにアカアカとしてくると、いよいよ鬼が現れそうな気配である。  先刻の警察の話が聞こえているから、まわりの人はたいがい首をめぐらして、太鼓橋の方を注視している。影が動いて、誰かが「アッ」と声を出した時には人々が一勢にどよめいたが、太鼓橋を渡ってきたのは、タダの警備のおじさんだった。 「鬼が来たら、この豆をぶつけてやるんだよ、オニハソト! って声出さないとダメだよ、オニハソト! っていえるか? ほら豆しっかり持って!」 と、若いお母さんが、小学二年生くらいの息子に大きな紙袋を渡している。ずいぶん大量に豆が入っているらしい。  男の子は緊張しているらしくて、無言である。  乱暴に私の足元を押しのけるようにして柵をくぐりぬけてしまった。 「まだ! まだ!!」 とお母さんが引っぱる。男の子は、それでも無言だ。無言でそこにしゃがみこんでしまった。そしてポリポリ豆をかじっている。 「ダメだよ、あんまり食べすぎちゃ」 と、お母さんが言うのが聞こえているのかどうか、いつまでもそうしている。  本殿の方では、白装束の神官が出て、なにやら唱えるように読み上げるように言うのが、拡声器で響きわたる。  と、デデン、ドドンと太鼓が鳴って奇妙なうめき声を上げて、鬼が出た。「鬼だ!!」といって、算を乱して逃げる気配なのかと思うと、そうでない。 「鬼だねえ」 「赤鬼と青鬼だ」 と、落ち着いて論評しあっている。 「青鬼っていうが、緑色だね」 「目が四つついているよ」  そうなのだ。亀戸天神に出る鬼は目が四つある、というのは事前に我々もチェックしていた。その四つ目を見たくて、やってきたようなものだ。  四つっていうが、眉毛はどうなるのかね、眉の下に目が二つ、眉目目のようになるのか、眉眉目目とくるか、それとも眉目眉目とくるのか、そのあたりをつまびらかにしたい、という希望が我々にはあったのだった。 「伸ちゃん、眉目眉目だヤッパリ」 とツマがいった。冷静な観察である。鬼の面は、思いのほかよく出来ていた。虎の皮のフンドシは、虎の皮模様の木綿製であったし、鬼の裸も赤と緑の肉襦袢であって、あったかそうではあっても、おどろおどろしかったり、たけだけしかったりはまるでしない。  鬼は金棒ではなく六尺棒のようなものをもっていて、わあおう〜〜というようなうめき声は、ピンマイクが拾って拡声器にとばしているようだったが、全体に「借りてきた鬼」といった印象である。  しかし、私の隣の少年は、かなり緊張しているらしく、無言のまま、豆を投げつけるが当たらない。 「ホラ、オニハーソトーって、オニハーソトーって!! 声出してホラ!!」 と母親は叱咤するのだが、豆を投げつけるのでいっぱいいっぱいで、投げる豆の量も異様に少ない。  鬼はおとなしく、神官の言い分を聞いていたかと思うと、スタスタ太鼓橋の方へ帰っていってしまった。 「フクハーウチー」の声がすると、今度は算を乱して、見物は福豆を拾いに柵をこえていくのだった。 「うーむ」 と我々はうなった。鬼の面は、なかなか生々しかった。思いのほかによくできていたのだった。だが…… 「鬼がちょっとおとなしすぎだと思う。鬼の背が低いのもどうかと思う。せめて一九〇センチはほしい。寒いかもしれないが、肌は襦袢ではなくナマに塗りたい。登場時はもっと暴れて、なにか器物破損するとか、悪役レスラーくらいのパフォーマンスはほしい。警官と場外乱闘もしていただきたい。柵はこわして入ってきて下さい。かがり火は倒した方が迫力があるとおもいます」といった要望が、口々に出たのだった。しかしナマの鬼を見たのは、今回初めてで、私達はかなり満足なのだった。 [#挿絵(img/047.png、横140×縦221、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] まだまだ若いツモリ 「オジサン、ボーシが落ちましたョ」 とオバサンが言った。地下鉄の車内である。私は降りるところだったので、立ち上がりながら、 「あー、どこかのオジサンがボーシを落としたな」 と思って出口の方へ歩いていった。すると今度はオジサンの声で、 「|オジサン《ヽヽヽヽ》!!」 と大声に言うのだ、お前のことだ! というニュアンスで強調されている。ふと見ると足元に、私の毛糸のボーシが落ちているのでヒョイと拾いざま、 「オジサンとはオレのことか?!」と気がついたのだった。 「どうも、おそれいります」 と、私は落とし物の注意をしてくださったオバサンとオジサンにお礼をしながらそそくさと地下鉄を降りたのだった。降りて思わず笑ってしまった。  私はどうも、心の底では自分をオジサンと思っていなかったらしいのだ。テヘヘである、なんだかなァどーも、である。  私はいま、五六歳である。あと三月たてば五七だ。どこをどうひっくり返したってオジサン以外ではありえないのに、本心ではオジサンと思っていないとは、どういうことなのだろう。  もうかれこれ、一〇年は前のことかと思うけれども、山手線に乗っていると、前の座席に座った、七〇歳に手がとどこうという、お婆ちゃんが二人、お喋りをしていた。 「アンタねぇ、こないだもーう、失礼しちゃうのよ。アタシが荷物持って、ドアんとこでこう立ってたらサ、もしもしおばあさんどうぞこちらにって、こーいうのよォ」 「あ、らまー」 「ねえー、ヒドイじゃないの?」 「ほんとにねー」 と二人でフンガイしているのだが、意味がわからない。荷物を持って立ってる年寄りに、席をゆずろうっていうカンシンな若者の、どこがヒドイのかしばらく聞いていると、つまり「おばあさん」と呼んだのが失礼にあたっていたのだった。  私が思い出したのは、この一〇年前のおばあさんのことで、つまりは私は、まるでおばあさんのようではないか?! と思うと笑うしかないのだった。  白髪の坊主頭、膝の上に置いてある毛糸のボーシのことをすっかり忘れて、駅についたからってヒョイと立ち上がり、それが落ちても気がつかない。 「オジサン、ボーシが落ちましたョ」 とだれかが教えても、|マダ《ヽヽ》気がつかないので、わかるように大声で、スタッカートで言ってやる。 「オ・ジ・サ・ン!!」  お前、お前だ、お前以外いないだろ! 気づかずにボーシうっちゃってくようなオジサンは!!  ところがオジサンは、いつもオジサンと言われつけていないのである。オジサンはコドモがいないから、コドモの友達もいない、親戚にメイもオイもいるのだが、メイもオイもオジサン、オバサンに近くなっていて、オジサンをオジサンと呼ばない。  近所にコドモがいないし、コドモから話しかけられることもない。八百屋に行かないし、魚屋で買い物もしない。  コンビニでは会話がない。オジサンはどこからどうみてもオジサンだけど、オジサンと呼ばれたことがないのであった。  それで、まごついた。まるで、 「おじいさん!!」 と呼ばれたような気分なのだった。  自宅では、ゴハンツブをこぼしたり顔につけたままにしていたりする時に 「おじいちゃん、おじいちゃん!!」 と呼ばれることがある。 「ダメじゃない、こぼしちゃさァ」 とヨメに叱られるわけだ。物忘れのはなはだしい時も、呼ばれる。 「もしもし、おじいちゃん!! しっかりしてくださいよ」のように。  が、言う方も言われる方も、冗談だと思っている。  ところが、見ず知らずの他人様から、 「もしもし」 「ちょっと」 「あの、そこの人」とかじゃなく、 「オジサン……」とすんなり断言されたのみならず、 「|オ《ヽ》・|ジ《ヽ》・|サ《ヽ》・|ン《ヽ》(お前だよボケ)」と決定されると、やっぱりちょっとショック! だったらしい。  たしかに、私が他人であったなら、私は、オジサンだ。オジサン以外の何者でもない。おねえさんでもないし、おとうさんでもない。社長、でもないし、お坊さん、でもない。神父さまじゃないしお殿様でもない。おすもうさんでもないし、教祖様でもない。とすれば、 「おじさん」しかない。  だが、しかないと自分で結論してしまえば、やはり少しばかりさみしいのだった。 「おれは……」  おじさん以外の何者でもないんだ……と、思いっきりつぶやいてしまうのだった。 [#挿絵(img/048.png、横120×縦210、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] 狸の階段 「シンちゃん、今日いそがしいかなァ」 と、ツマが言った。こういうことをツマ・文子が言うときは、たいがい面白い企画を思いついた時だから、私は、 「大丈夫いそがしくない」と必ず言う。  ヒマじゃなくても、企画に乗っちゃったほうが断然面白い。 「シンちゃん、今いそがしいかなァ?」 と、|おつかい《ヽヽヽヽ》に出ていたツマから電話があった。もう一〇年くらい前のことだ。その時直感が働いて、私は三〇分後の〆切の仕事をパタリとやめた。 「え? 大丈夫、いそがしくない」 「じゃあねえ、今すぐ階下《した》に来てくれる? 隣のビルの入口ンとこにいる」  私は、すぐにルス電にして、カギをかけて階下に降り、隣のビルの入口まで走っていった。 「今ねェ、ものすごくデッカイ虹が出てる。コッチの方角だから、ここんちの屋上に上ろう!!」 という提案だった。ワレワレは何喰わぬ顔で、そこんちの関係者を装って、エレベーターで屋上の階までいった。  屋上階は小規模のゴルフの打ちっぱなし練習場みたいになっていて、屋上へ出るにはその受付の前を抜けないといけない。我々は、そこを姿勢を低くして切り抜けた。  屋上に出てみると、すんばらしき! パノラマだった。びっくりするほど、広々と広がった東京湾が見えていて、そこに、雄大なスケールの虹がかかっている。  まるで……夢に見ているような景色だ。 と思った。ツマもそう思ってるらしくて黙って見ている。 「これはキミ」と私は言った。 「すんばらしい企画じゃないか?!」 「でしょ?」と、やっと言って、自慢そうだ。  それからだ。私はツマの突然の企画には無条件で乗ることにした。  その日の企画は、餃子だった。新橋のオフィス街のビルの地下に、水餃子が自慢のお店があるらしい。土曜日もやっている。地図で場所も確認した。 「まず、何をおいても水餃子を」食べろとメニューにあるから、ビールとその水餃子を発注して、それを平らげた。ウマカッタ。  それから色々、大根の酢漬や、トーミョーの炒めものや、腸詰やを次々に発注して次々ウマカッタ。満足した。 「いい企画だったな」と言って、我々はそこを出た。新橋のオフィス街の、ビルの地下である。同じフロアにはあと五軒の食べ物屋が入っているが、ことごとく休みである。休みだが、フロアにはウソみたいにコウコウと蛍光灯が点いている。  不思議な店だ。狸がやってる店かもしれない。とか話しながら、腹ごなしにブラついていると、愛宕神社入口、と看板の出た坂道が目についた。  愛宕山、といえば昔NHKの放送局のあったところと、名前だけは知っているけれども、来たのは初めてだ。  人っ子一人いない、その山道めく坂を登っていくと、ここがまた、狐か狸に化かされそうな雰囲気が充満している。ダラダラ坂を、いくらも登らないうちに、頂上らしいところに着いた。  目の前に、東京タワーの、上半分くらいのところが、スコブル真近に見えているのだが、あんまり細部がくっきりしていて妙に現実感がない。 「まるで……」と、二人同時に思ったらしい。東京タワーみやげののガラスの置物の中に入ってしまったような気分である。  少年雑誌の口絵にあった「昔の未来図」みたいな高層マンションが二棟見える。  ライトアップされて、炭がおこったみたいに輝いて見えている東京タワーの細部が、なんだか見知らぬ塔に見えて不思議である。そして近景は、黒々と江戸時代みたいな木立である。  愛宕神社の境内に今いる人間は、我々二人だけだ。山頂だというのに滝の流れ落ちるような水音がずっとしていて、そこを目指していくと、不似合いに大きな和船を浮かべた小さな池があった。 「なんだか、夢のような……」 「景色だよね」と二人で言い合った。ひょっとすると先刻ウマイウマイ、といって水餃子を食べてたあの時点から、既に狸に化かされてたのかもしれない。 「待てよ……」と私は言った。ここが愛宕神社なのだとしたら、石段があるはずだ。東京で一番落差のある、昔から絵にされてきた絶景のポイントである。トツゼン、 「わっ!!」 と、ツマが叫んだ。ものすごい急な階段がそこからいきなり始まっていたのだ。常識はずれにどこまでも続いていくその階段の先の方は闇にのみ込まれていくようだ。  先刻登ってきた道を、引き返すことだってできるのに、我々は引き込まれるように、その石段を降り出してしまっていた。  階段恐怖症のツマは、すっかり黙りこくって手すりにしがみつくようにして、一段ずつ足探りに降りていく。その歩調にあわせていると、まるで階段がこの先無限に続いているようだ。 「この階段、狸が化けてんじゃねえの?」と軽口を言っても、ツマは一言も返答しない。ひたすら足で探るように降りていく。空が真っ黒だ。  どのくらい経ったろう、「ああ……」やっと着いたとツマが言った。振りむくと、ものすごい階段だった。 「いい企画だったよ、なかなか」と私が言った、ヘヘヘとツマは笑っている。 [#挿絵(img/049.png、横132×縦212、下寄せ)] [#改ページ] [#1字下げ] あとがき  「笑う茶碗」の茶碗は、夫婦《めおと》茶碗のことである。つまり、この本は私とツマの夫婦生活を赤裸々に綴ったものなので、題は「笑う夫婦」でも「笑う生活」でも「笑う夫婦生活」でもよかったのだが、なんだかなまぬるいような感じなので冒頭のようにした。  もっとも、内容はきわめてなまぬるいものである。ここから教訓を汲みとることは不可能だし、かといって反面教師となるほどのこともない。実用的の役には立たないし、かといって、文学的な香りは皆目ない。  まあ、ハシにもボーにもかからないような、ドクにもクスリにもならないような、そんじょそこらの夫婦の話である。  ワレワレは一九八〇年の四月一日に夫婦になったので、今年二四年目になる。来年にはギンコン式ということになるらしいが、別段のことはない。  私はそろそろ五七、ツマはそろそろ四七になるけれども、コドモがいないせいか、あまり人間的成長はしていない。やっていることは若いころとさして変わっていない気がする。  もっとも、二人とも生物的には年をとった。二人とも老眼になったし、ついこの間までは、どこにも不調のなかった身体も、近頃は、やれ腰が痛いの、肩が痛いのとガタピシしだしたらしい。  この本のもとになっているのは、いまも連載の続いている、タウン誌『月刊日本橋』の「シンボーの日々是好日」という作文だが、私はこの文を、いつのまにか「ツマへの感謝」の手紙のように書いていたらしい。くだらないことしか書いていないが、こんなくだらないことを言って、へらへら暮らしていられるのも、ツマが私同様に冗談好きだったからなのだと、そう思うからだ。  もっとも、こんな文を読めばツマは「よせやい」と思うだろう。恥ずかしいこと書いてんじゃないよ、と言うだろう。我が家はどうも、ツマの方が私より男っぽい。 南伸坊(みなみ・しんぼう) 一九四七年東京生まれ。イラストレーター。美学校「美術演習」教場修了。雑誌『ガロ』の編集長を経て、八〇年よりフリーとなり、イラストレーション+エッセイで活躍。また、赤瀬川原平、藤森照信らと路上観察学会を設立し、その成果は文章やTV等で発表されている。著書に『笑う写真』『李白の月』、『モンガイカンの美術館』、『装丁/南伸坊』、『本人の人々』、『仙人の壺』など多数。 本作品は二〇〇四年九月、筑摩書房より刊行された。 なお電子化にあたり、解説は割愛した。